好きにやっていい時ほど好きにできないのは人間の性

人間誰しも好きなことをしたい。欲を言えば好きなことだけをしていたい。それが人間というもので、やりたくないことは人に任せたくなるものだ。そして、人のやりたがらない仕事や面倒なことを買って出る人が現れ、仕事となり今の経済がある。つまり仕事とはやりたくないことなのだ。

家に帰るとプライベートが確約される。独り身であれば完全なる自由であり、何をしてもいい。それがインターネット上であればその自由度はさらに広がる。制約がないということほど嬉しいことはない。ただ、逆に何をしてもいいと言われたら遠慮してしまいがちだ。なんでだろう?自分はこの謎を未だに解けずにいる。

脳内でやりたいことを思い浮かべると無数に浮かぶ。できればイタリア旅行しながらラーメン二郎食って大原優乃とデートしたい。自分はそうだ。しかし、これは不可能なことで3つのうち2つを削り夜はヤサイアブラマシを頼んでいる。取捨選択のうち自分の憐れさに気づく。人生は常に取捨選択の繰り返しだ。麻雀で手役を作るようにツモっては捨てのループ。いらないと思った發が捨てたら来るように人生には後悔することも多い。リーチして後戻り出来ずに他人にロンされる。そんなこともある。

先日「ゴムーン×ふーふーの放送禁止」という放送をした。ゴムーンが音MAD界隈を去る門出となるように音MAD界隈の闇を暴いてやる!と意気込んだ配信にするつもりだったが内容は肉薄でやってる自分もつまらなくなってしまい、そんな配信しかできない自分に絶望してコミュまで消した。この放送は半年ほど前からやるのを決めていた。その段階でリー棒を投げていた。もう降りられない。そう自分にプレッシャーをかけていた配信だった。だがどうだ、いざその日になってみたらやろうと思ってたことが出来なかった。なんでもできる場を自ら与えておいて全てを話すことは出来なかった。むしろある程度線引きを分かってる状態でたまにそこを越えるから面白いわけで、初めから線を書かずに飛び込むと、見ている側もどこからがダメなのか分からなくなり逆につまらなくなる。不思議なことに本当の事だ。

人生は不思議なことばかりで、多分死んでもわからないことばかりだ。これを理解した時に“実力をつけた”という扱いになるのだろうか。

まだ無力だ。

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