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創作意欲とは果たして何なのか

※この記事は非営利な創作を軸としたお話です。

まず皆さん。創作意欲はありますか?
今はない人でも昔はあったり、期限などを決めてもらって縛られると湧いてくる。みたいな人もいると思います。
私自身も創作意欲に満ち溢れているときもあれば、何も創りたいという気持ちが起きないというときもあります。それこそこういう文章を書くこと自体も意欲があるときにしかできません。
そんな話なんですけど、この創作意欲というものがどういうときに湧くのか?という結論じみたものを先日発見しましたので備忘録として残しておこうと思います。

それは「コンテンツを消費しているばかりの自分に対する申し訳無さ」なんじゃないかと思います。
自分が動画投稿も配信もせず、インターネット上で金にもならない音MADという映像を創る上でモチベーションになるのは他者からの評価唯一だと思っていました。
人に褒められたいからわざわざ時間を割いて創る。そういうものだと思っていました。
しかし、そんな消費しているばかりの時期が続くと「そう言えば俺って創る側だったな…」とふと気づくのです。そしてこの面白を享受する身として多少なりとも申し訳無さというのを覚えたのです。
その時に立てたのが前述した自分に対する申し訳無さが創作意欲に直結しているのでは?という仮説でした。

こんな文章を垂れ流してどうしたいのかと言えば。この私の意見が果たして他の人もそう思っているのかと思った次第です。
別にそのようにこの記事の読者の範囲を広げるならば、一旦前置きにあった「非営利な創作を行っている」という前提はおいておきましょう。
これを仕事や勉強に置き換えたらどうでしょう。おそらくやらされている様な感覚に近い人が多いと思います。でも、そんな中でも作業における小さな効率化昼食を行ったことない店で食べてみるとか帰りの電車は指定席で帰っちゃおうみたいな「自らにしか得のない挑戦や贅沢」みたいなものがあると思います。
個人的にはそれが非営利な創作…。創作というか生活における工夫に近いですが。そういう行為自体に伴うのは余裕があるかというのが大事な要素になると思います。消費してばかりの状況はある意味余裕の表れでもあるんじゃないかなと。
つまり、逆説的には忙しいほど創作意欲は湧かないんじゃないかということも考えられます。
忙しくなるとオリジナルを生み出す余裕がなくなり「自分らしさ」を見出だせなくなる。結果として創作意欲が削がれるのではないか?私はこう考えます。
それに気づくと、「コンテンツを消費しているばかりの自分に対する申し訳無さ」というのは余裕がある状態で参考になるようなモノを閲覧した結果として内なるクリエイティビティを刺激しているだけなのかもしれません。

何にせよ、創ってくれる人がいるから観る人がいて成り立つコンテンツでもあります。自分らしさを追い求めすぎて焦ってしまうときほど本能的に流行に飲まれ、視聴者や界隈に迎合してしまいます。それが評価されるということで、自分の立ち位置を大きく揺るがさないであろう選択だと信じたいからです。

そんなことを考えていると自分の作りたいモノが信じられなくなる時もあります。そういうときに受け取る側として徹して逃げるのも悪くない。
そう信じたい自分は浅はかなのでしょうか。

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