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「本当に仕事にしたいこと」を仕事にできない理由と我が人生

挨拶

皆さんおはようございます。最近は冷える日が続いて風が強い日なんかはこのまま血液が凍って冷凍保存されてしまうのではないかと危惧する時もありますが、なんとか生きています。はい、生きてる。
そんなことより私は映像を作る仕事をしている。そして、去年の7月に前の職場を辞めニート生活を謳歌していたのだが、なんだかんだ12月に映像職に就いている。なんで二度も同じ業種を選んだのか。
まず、前提として私の人生の話をしていきましょうか。

映像との出会い

私は小学生の頃は電車の運転士になりたいと思っていた。今でも鉄道に乗って色んなところに行くのは好きだが、当時は今よりも鉄オタとして生きていたような気がする。路線図を覚えておいたことは齢二十三になった今も役に立っている知識だ。
そんな私だが、うごメモで音MADを作っていた。「ななな」という名前でくだらない音MADを投稿していた小学生時代。TwitterのIDはその名前から来ている。小5の時にパソコンで動画編集の楽しさを知り誕生日プレゼントにSonyのMovieStudioを買ってもらった。中2から本格的にニコニコでも活動を始めてクッキー☆とかの有名素材を使っていたことも功を奏し音MAD作者「ふーふー」として認知してもらえるようになった。

父親が映画と音楽が好きでその影響をモロに受けている。本当は映画の勉強をする大学に行きたかった父と、常に好きなことをやれと言う放任主義の母。パソコンを触らせてくれて編集ソフトを買ってくれたことには感謝してもしきれない。中2の時に淫夢MADを作っているところを母親に見られた時に「まあ…お母さんはそういうのが好きでも何も言わないけど…あんまり激しいのは控えてね」と言われたのを今でも覚えている。淫夢が激しくなかったら何が激しいんだと思った中学生の夏だった。
親は今でも週末には2人で車中泊したりPerfumeのライブに行ったりしている。たまたま親が仲の良い家庭に育ったからか、いつかは結婚したいという漠然とした願望があるのでよろしくお願いします。

確信

そんな私が「将来は映像の仕事をしよう」と強く思った出来事がある。それは中学校での卒業発表だ。クラスごとに出し物をするが、他のクラスが劇をやったりしているところ私のクラスはダンスを発表することにした。当時流行っていたもので「恋するフォーチュンクッキー」のMVパロディがあった。

このAKBのMVを地方自治体や会社がパロディで投稿して話題になっていた時期があった。何個か紹介するとこんな感じ。

こんなん面白いに決まってるじゃないか。それをやると決まった瞬間クラスの中で「ダンスを習っている女子」とか「英語が喋れるので最初の部分のセリフを考える男子」だの一致団結していくわけで、その中で自分が任されたのが撮影と編集だった。構図を考えてカットに応じたダンスを切り貼りしていく。簡単だと思っていた作業がこんなにも大変だというのを初めて知った。これが人生で初めて映像を作る上で大人数で成し遂げたものになる。
最終的には保健室の先生や他クラスの担任、校長先生にも出演してもらい思ったよりデカいプロジェクトになっていた。ただ、撮影と編集をしている時は苦しいと思うこともなく「恋するフォーチュンクッキー3年2組バージョン」は完成した。
遂に発表の時。学年で150人くらいいたが、体育館のスクリーンに今から上映されると思うと吐きそうな思いだった。それは「自分の編集した映像のリアクションが目の前で繰り広げられる」という恐怖、それだけだ。「次は3年2組の恋するフォーチュンクッキーです!」司会がその言葉を放ってから上映終了まで物凄く長く感じた。それはなぜか。

めちゃくちゃウケたから。

150人の笑い声が物凄く幸せで、初めてリアクションを直接得るような体験。涙を流さずにはいられなかった。そしてこの後、将来は映像を作る仕事に就こうという決意をする瞬間が訪れる。
担任の女の先生から「ちょっとこっち来て」と体育館の外に呼び出された。「こういうの、本当はダメなんだけど」そういうと先生はポチ袋を渡してきた。中には1000円入っていた。勿論断ったが「いいから受け取って」と言ってくるその言葉は拒絶してしまうことによって、自らの信念が崩れるような、そんな気がした。
その出来事こそが私の人生を大きく変えた出来事である。

中3の私からすれば「その1000円はお金だが、お金に在らず」というような不思議な報酬だった。対価としてお金を貰えたのが嬉しかったというよりも自分の仕事が他人にとってお金を払う域に達せていたという事実が嬉しかった。「自分の持つ技術をお金に変えてもいいんだ」という確認がその瞬間できた。

そこから高校を卒業するまでその信念を貫き通す。しかし、その中でも自らが映像職に就く将来を決定づける出来事が起きる。当時高2だった私は部活を途中退部してから不登校になった。虐められていたわけでもなく、ただ通う理由なくね?みたいに思ってしまった。親に嘘をつき浅草のアドアーズでメダルゲームに没頭していた少年は、非生産的な存在そのものだった。結果として単位が足りなくなり、高3から通信制の高校に通うことになる。ギャンブルと生放送と睡眠導入剤に溺れる自堕落な生活は紛うこと無き屑そのものだった。その後通信制を卒業し映像の専門学校に通うわけだが、その直前に祖父が癌で亡くなる。厳しくも温和な祖父。とてつもない悲しみに暮れる日々が続くが、専門学校に入学する頃に母からあることを伝えられる。

「(母の)お父さんがさ、あんたの通信の転校にかかるお金全部払ってくれてたのよ」

あんなにカッコつけたりしなかった祖父がそんなことをしていたなんて信じられなかった。私には隠しておくように伝えていたらしいが、母はその事実を知って前を向いて欲しかったのだろう。
勿論高校を卒業をしていなければ専門学校にも入学できない。今の私がいることは祖父のおかげなのだ。仕事と兼ねて画家をしていた祖父のクリエイティブな側面を受け継いで世の中に広めたかった。

自己暗示

そういう出来事を経て「私は映像職に就かなければいけないんだ」という思いが日に日に強くなっていく。
専門学校では編集以外にも演出や撮影、照明音声まで多くのことを学んだ。これは映像系の専門学校あるあるだと思うのだが、撮影のバイトにめちゃくちゃ誘われる。映画やMVは勿論、テレビ番組のADまでバイトで賄っているところもあった。そんな中幼稚園の運動会を撮影するバイトに参加する。プロのカメラマンと私の2人で幼稚園を駆け回り画を追い続けるという過酷なものだった。帰りの車でそのカメラマンに言われた一言が今でも覚えている言葉だ。「将来はなんの仕事するの?」と聞かれて映像編集の仕事をしようとしていると答えるとその人は言った。「編集ってのはさ、最後の大事な仕事じゃん。でもほとんどの編集マンの人って現場の気持ちなんか分かってくれないんだよ。だから今日の経験も覚えていってくれたら嬉しいかな。」それを言われてふと我に返った。
もしかしたら、今までは素材を1920×1080というキャンバスに綺麗に収めることしか考えていなかったのかもしれない。
それは編集だけを求められているなら良いかもしれないが、映像編集を仕事にする以上その完成系に携わるのは1人ではないのだ。その日以来専門学校でもできるだけ編集ではなく音声や照明ばかり率先してやるようにした。特に照明は編集作業に近く、置く場所や光の強さと色温度によってこんなにも変わるのかと驚いた。編集作業はPremiereやAfterEffectsを使いこなすのだけじゃないというのを改めて感じ、学校生活を過ごした。

2年という期間はあっという間だった。とっとと働きたいという想いで専門学校に入ったはいいものの、これといって自分らしさを見出せずにいた。卒業を控える私には卒展が待っていた。どうやらドラマとバラエティ番組を2班に分かれて作るらしい。私はとりあえず課題で出ていたドラマの脚本を書いた。そしてそれが運良く採用されてせっかくなので監督をやった。今のところそれで完成した作品が代表作な気もする。内容に関しては簡単に言うと、近未来のインターネットを題材にして思い出の品も簡単に売り買いできるようになってしまったフリマアプリに警鐘を鳴らすようなものである。主人公は生活に困り、身の回りの幸福をアプリで販売する。しかし、本人からすれば当たり前の幸福が得られない人にとっては高額なもので、そのギャップを憎たらしく描くブラックジョークだ。改めて考えてもなかなかイカれた脚本だと思う。キャストもオーディションで決めてカメラ担当の同級生と絵コンテを描いたり、ロケハンをしたり管轄の警察に道路使用許可を取りに行ったり普通にキツかった。でも、苦労すればするほどその高揚感は高まった。編集している時も楽しかった。上映後のアンケートで批判されることもあったが、それも物凄く嬉しかった。その時に初めてこの文章を書いている私のような感情になった。このために今までがあったんだ。そう強く感じた。ちなみに、当時の副監督は今は映画監督になり、バラエティの方でチーフディレクターをやっていた奴は今はゴールデンのバラエティのADになっている。その二人とは今でもたまに会って話すが面白くて時間を忘れてしまう。そんな出会いができたのも専門での収穫かもしれない。

就職

卒業後はテレビ番組の編集、俗に言うポストプロダクションに就職した。会社の人も良い人だったし仕事はキツかったけどやり甲斐はあった。何故辞めたかと言うと会社の将来性がなかったのと給与が低かったからだろうか。仕事にしてしまうとそんなものだろう。創作は作業と化し、効率を求め始める。その時の逃げ場こそが音MAD制作でもあった。

音MADは本当に仕事にしたいことにかなり近い。ある意味自由が効くし、演出も思うがままだ。映画やMVでやりたいようなこともできる。私の動画に実写撮影素材が多く出てくるのもその影響があるんだと思う。

では、はたしてそれを仕事にしたいかと言われれば正直したい。本当に仕事にしたいことを仕事にできればどれほど幸せだろうか。そんなことはずっと考えていたし、そもそも中学生の頃の私は「本当に仕事にしたいことで報酬を受け取る」と言うのを人生の目標にしていたのではないか。今の考えは見誤っているのではないか。考え直すこともあった。何度も考えた。それで行き着いた理由が「本当に仕事にしたいことは仕事になった瞬間に違うものに変わってしまうから」だった。言っている意味がよく分からないかもしれないが、簡単に言うとここまで積み重ねてきた意味でもある「好きなことを仕事にする」というものが壊れるのが怖いのだ。仮に仕事にしてしまって、それが楽しくなくなったりしてしまった時に生きてきた意味を見失ってしまう気がする。それが怖いだけだ。

今までの自らの人生を肯定し、間違っていたかもしれないと気付きたくないがために、中学生の頃の自分を裏切って今は生きている。そのジレンマに苛まれながら「本当はやりたくないこと」を無理やり「やりたいこと」だと言い聞かせ仕事をする。今の転職先も本当にやりたい仕事ではない。こんなことするために勉強したんじゃないのにと考えることもある。それでも続ける。仕事なんてやりたくないことで留めておくことが良いとも考えているからだ。給料は前の職場よりも良いのでそれだけをやり甲斐にしているが、その思いが過去の自分への裏切りと気づきながら生きるのは辛い。でも、これでいいんだと信じなければいけない。だって、それが理由だから。

理由とは

こんなに長く話しているが、伝えたいことはちゃんとある。今まさに学生の人とか、楽しくもない仕事をしている人がいると思う。やりたいことが決まっていて勉強している人もいれば、なんとなく進学して今に至っている人もいるだろう。仕事先もたまたまその会社に侵入しているだけの人もいるかもしれない。そういう時に唐突に将来が不安になると思う。他の人が羨ましく見えたりするかもしれない。でも、それを無理に打開しようとするのは自分を苦しめることになると思う。
私みたいに将来の明確な目的のために今を生きないでほしい。楽観的に周囲を愛して自信を持ってほしい。だからせめてもの抵抗として、私は自分の作ったモノには絶対的な自信を持つようにしている。

そんな話。そんな人生。誰かアドバイスをください。




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とてもストレス発散になりますよ


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