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音MDM天とはなんだったのか

はじめに
この記事は主観での記述を基に書いたものであり運営および関係者の総意ではありません。


5年前

2018年。前回の第1回音MDMは那須ピーマンと仲が良いから呼ばれただけだった。運営兼参加者として色々頑張ったつもりだったが、「音MDMの何が凄いのか」という点には気づけず終いになってしまった。
放送後に反響が大きくて、その時にやっと気づいたのだ。「こんなにも大変な企画は無かったんだ」と。
放送後に多くのことを感じた。この企画がなければ合作をすることもなかったであろう「へぷてぃむ」と合作をし、予想だにしなかった音MADを作ることができた。1回目の音MDMに関しては運営的なことは放送の構成を少し考えたりOBSについて少し話したくらいだったので、参加者としての感想としては「マッチングがキツイ」「その先の偶然性を孕んだコンビの成立」「音MAD作者という存在を駒として扱い視聴者に見せる企画」「戦う音MAD作者ってカッコイイ」みたいな感じである。
結果として面白い企画にはなったが当時は後発企画やイベントが乱立する界隈自体に辟易としていた。当時の感情をnoteに残している。

以上の記事で一番伝えたかったことは「運営側は参加者にその企画の意図を100%理解させるべき」ということだ。では、音MDM天においてその意図とはなんだったのか。

那須ピーマン、気の利く男である

2022年5月4日、那須ピーマンによる検討が始まった。

昨今の総理大臣のような言いぐさである

そもそも何故那須ピーマンはこの企画をやろうとしたのか。それはゴムーンがこの日に「第2回音MDMの参加者を勝手に考えるだけ」という生放送をしたからだ。冗談であったこの放送はちょうど第2回をやってもいいと思っていた那須ピーマンにより現実味を帯びていく。いい迷惑である。
最初は9人でこの企画は始まった。主催の那須ピーマン。制作進行のともしげさんとたいうおさん。アートディレクターの1時さん、単三型さん、咲崎さん。放送ディレクターの埜村さん、ゴムーン。そしてだ。一応こんな感じで仕事は分かれていたが後半はみんな様々な作業をしていた。
最初の会議では第2回音MDMのコンセプトについて考えたような記憶がある。「天」という名前やアマテラスなどのキービジュアルの軸は単三型さんが考えていた記憶がある。それを基に本放送までの1年以上、告知や配信画面などの様々なデザインに影響を与えていたことは言うまでもない。
その後、我々は出場者の選出を行った。会議の内容は曲がりなりにも「作者に優劣を付ける」というものになるので詳しく記載はできないが、個性のある作者や使用素材のバランスを考え投票枠を除く38人の選出を行った。断られた人もいたが、なんとか出場者は集まり、サーバーにて待機してもらった。
ここで1つ伝えておくべきなのが音MDMでは参加者だったのが音MDM天においては出場者という表記に変わっている。このnote内でもそうだが、配信やTwitterでも同じように表記していた。

死ぬんじゃねえぞお互いにな

なぜ出場者になったのか。それはこの企画自体が参加するという意思を持って集まってきた作者たちではないからだ。こちらから「出場して欲しい」というお伺いを立て、それに承諾してくれたまでだ。そして戦ってもらう。
個人的な意見としては「こんな苦しい企画に出場してくれるなんてありがたい限りだな」と思っていたが、蓋を開けてみれば多種多様な40人になり、これならこの企画は何事もなく成功するだろうと踏んでいた。
出場者を誘い終わったら次は「10選告知」「年始のDirect」の制作を開始した。これらは実際に絵コンテなどを作り無駄にベンツを借りてちいかわを乗せるなどして撮影した。この頃にキービジュアルの作成と出場者紹介のVTR作成で-32℃さんや冬眠さんを誘った記憶がある。9月か10月頃だっただろうか。

何故か撮影中は警察を敵視していた

この頃には「これは人が増えてきて大変なことになるぞ」と薄々思ってはいるものの本放送まではまだ9ヶ月以上あったので特に焦ってもいなかった。
これは今の今まで思っていることなのだが、本放送の面白さに関しては運営側は関与できないと感じていた。結局のところ流れる20本の音MADが面白ければ放送も盛り上がるし、逆も然りだと思っていたからだ。出場者の作る動画には口出しはできないし、こちらとしてはただ待つだけ。それを勝手に流して評価させる酷な企画であることも、前回参加者だった身としてしみじみ思っていた。
だからこそ、前回に比べて流れる動画以外の部分で力を入れたいと思ったのかもしれない。

Directの撮影後那須ピーマンはハナハナで爆勝ちしていた

年を越した

2023年になった。企画が告知され音MDM天が世の中にバレた。もう後戻り出来なくなってしまった。
ゴムーンから「正解は一年後の編集が間に合わない」という連絡があったので音MDM Directの編集は最終的に自分が行った。ついでに放送もした。
そして、その場で全出場者が紹介された。Direct内でも言っているが出場者もお互い誰が出場しているのかをこの放送で知ることになる。

名前長いやつはそれだけで面白い

そして同時に始まるのがマッチングである。
今回、マッチングを行うと同時に出場者の情報を1つずつ開示していくという方式を取った。そこで役に立ったのがとあるソフトである。それが2022年の段階から運営内で情報をまとめるのにたいうおさんが勧めてくれた謎のソフト「Notion」だった。スプシよりページ分けなどをして情報が見やすく重宝していたのだが、開示していく情報をまとめるのに使えると思いそのページを作ったりした。自己紹介がわりに動画を貼ったりすることもあったので、サムネイルが見えてリンクを貼れるNotionは最適だったのかもしれない。

結構評判が良かったので今後もNotion使ってもいいかもと思った

そして1月30日にとある会議が行われた。そこで自分は会議で2つの案を出した。それが「音MAD版トリビアの泉」と「音MADの歴史解説」だった。
しかし、他のタスクが多かったため特番の制作進行は一時中止になる。
出場者側の対応としてはたまに疑問点を聞かれたら答えるくらいで、運営陣は本放送をどうやって盛り上げるかを考えていた。しかし、大きな壁にぶつかることになるのである。
それが一部出場者に対する処遇だ。この件に関しては企画としては一旦収めたが、家庭内などの諸問題に関しては結論が出ていないので詳細については記載しないことにする。
簡潔に説明すると出場者の一人であるおがちょこさんが運営の単三型さんと配偶者でもある立ち絵を担当していたミーナさんに対して証拠不十分な状態でTwitterにてツイートを行い企画に対して混乱を招いたことになる。
これにより、先ずはその問題を解決することになった。
正直言うとこの会議は非常に疲弊した。運営内でもこの問題から逃避する人が多く出てきて、企画自体の開催中止も案として出た。最終的にはゴムーンと那須ピーマンと3人で声明文を作ることになった。
疲弊しきっていた3人は早くこの問題を解決したく、双方から事情を聞いて全容を把握しようとした。その結果として出場者1名を交代。このタイミングで運営のうち単三型さんとたいうおさんが心労により運営から退いた。
ツイートのタイミングで当時醤油をペロペロされたくら寿司の声明文を参考にした。僅かに残された遊び心でもあった。初版では最後にお問合せフォームとして那須ピーマンのTwitterのIDを貼っていたが「マジで連絡きたらどうすんの」と言われ削除した。
その後、公開中止になっていたコンビ告知の公開を再開し、残された放送班は特番について考え始めた。

特番

少し遡るが2月8日の会議が終わった次の日の朝に俺とゴムーンがそれぞれどっちの番組を担当するかを決めた。というか「ゴムーントリビアの方やってよ」と言って押し付けた感じだ。この押しつけが後のゴムーンの精神崩壊に繋がる。
「音MAD史」の方は「音MADの歴史(仮題)」として動き出した。制作スタッフとして飛鳥さんと生クリームを最初に呼んだ。音MAD界隈への知識が豊富で特に自分が活動を始める前の情報を知っていると踏んだからだ。その後、Lixyとピン象と葉月味を呼んだ。スタッフを勝手に呼んだので他の運営に軽く刺されたが、作者歴が長い人たちだけでこのような企画を作ること自体に抵抗があった。どうやって裏で動いてるのかを見てもらってもいいかな、と考えただけだった。

スプシにて情報をまとめた
非常に有用な内容だが触れていない情報も多く公開予定はありません

順序としては、情報の取捨選択をして構成草案を自分の方で制作。後にスタッフに共有しバランスを調整。その後Lixyにナレーション用の原稿に再構成してもらうという流れで脚本は作られた。
今思えばこの方法はあまり良くなかったと感じる。
構成と編集を自分で完結させることにより、編集スピードを上げることには成功したが「音MADの歴史をまとめる」と銘打っている動画に対して主観が入ってきてしまっているからだ。この問題点は少しずつ膨らんでいき、話数を重ねるごとに苦しめられることになる。
4月から編集を開始し1話は2週間くらいで完成、放送が開始された。そこから5話まで延期しながらも編集を続けるのだが、テレビチックな編集にアングラな要素を上手く盛り込む難しさに直面する。
自分はあくまで界隈の内側の人間。自分の面白いと思うものが万人受けするかどうかは自信が持てなかった。
放送後のツイートで「あの情報がない」「間違いが多い」と言われて内心うんざりしていた。これをあと5話も作らなきゃいけないのかと。
これが1人で作るものだったら途中でやめていたかもしれない。しかし、協力してくれる人がいて音MDM天の特番として始めた以上あとには引き下がれなかった。
先述した出場者の問題に加え、この番組の構成の甘さは音MDM天に否定的な層に隙を与えるような結果になった。
ただ、何かを作って公開するということは批判を受け入れねばならない。勿論、批判だけでなく情報の修正は番組のクオリティを上げるためには必要なことだ。そこで、無許可で音MDM天自体と音MAD史に対する意見を匿名で募集できるフォームを作り意見の集約をした。これが功を奏したかは分からないが、それ以降Twitterで個人に対するリプライやDMは減り表面上では落ち着いているように見せることができた。
2話以降ではスタッフにユビュさんを招待し、イベントや界隈の情報を集めるのに協力してもらった。あと乙打さんがニコ生で「俺がMAやろうか」みたいなことを言っていたのでそのまま招待した。彼は後の本放送MCである。
ここから少し音MAD史を何故作ったのかを説明しようと思う。どうでもいい話ではあるので読み飛ばしてもらっても構わない。
実は音MAD史は本来はゆっくり解説でYouTubeで投稿しようと思っていた。この混沌の界隈を映像としてまとめているモノが無かったのでまとめたくなったからだ。それを会議で言ったら通っただけで、本当はもっと研究して精査したかった。でも、時間がなかったのである。これは言い訳だ。
そして、音MDM天の特別番組になる以上番組のコンセプトは大きく変わっていった。それは「音MADを知らない人や最近見てない人も本放送が楽しめるように」というものだ。本放送では界隈ネタのようなものや作者マインドのようなものが出てくる可能性があった。そのため、後半にいくにつれ内輪ネタも解説せざるを得なかった。それがこの番組を「音MADの歴史解説」だと思って視聴している人とのズレを生んでいた。ここに関しては先に言うべきだったかもしれないとも思っている。
ただ、これは構成上の都合と公開順がある意味逆になっているとも言える。1話から順に見ていくと第二次世界大戦からWin95などのインターネット黎明期を経て2023年の音MDM天に繋がるが、構成を組む段階では音MDM天から逆算して情報を精査していった。それが、前回の音MDMであったりその基となった音MAD LIVE、そして音MAD-mixとはなんなのか。などと考えていくと界隈の中核にあるものに近づいてしまう。これが情報の内輪ネタ化に繋がっていたのかもしれない。
そして、この企画には大きな問題点があった。それは軸を決めなかったことだ。界隈や素材、曲、イベントなどの情報を順番に並べていった結果とっ散らかっているようになってしまい、上手くまとめあげることができなかった。これは自分の構成力不足であり、非常に後悔している。

構成草案
Googleドキュメントはオンライン上での文書制作に最適だった

そして夏になる

ときは経ち5月になっていた。運営にはきっかんさんとこまりさんを加え、来るべき日に備えていた。7月には音MAD史はとりあえず5話まで音MAD史歴史編が放送でき、本放送のことを考え始めなければいけなくなっていた。
あと、コミケの抽選が通ったのでグッズを出すことも決まった。
この辺りから関係者も増え、忙しくなってきた。そして6話の音MDM天編の編集が全く手につかなくなってしまった。これは、映像の仕事が忙しかったのもあるが、5話で燃え尽きて編集のモチベーションが0になってしまったのが大きい。もう何もできない。したくなくなってしまった。

完全に0である

そんな中、8月に那須ピーマンと1時さんが前回の音MDMを改めて見る放送を行う。そして、ここで那須ピーマンが覚醒するのだ。
主催としての立ち位置を思い出したかのように仕事を振り始め、自らも動き出した。周りの運営も「やっと動き出したかこのデブ」と思いつつ、残された1ヶ月を丁寧に進めていった。なんとか音MAD史の6話も完成し、インタビューをかなり削ってしまったのは心苦しかったが放送した。やっぱり音MAD史というナンバリングで放送しべきではなかったかもしれない。「那須ピーマンという男」にでもしておけばよかった。でも、こういう人の声で伝わっていくドキュメンタリーが本当は一番作りたかったのだ。できて満足。
それも束の間、音リビアを編集していたゴムーンが逝ってしまったのだ。

朝にこんな連絡きたら背筋も冷える

この日は編集も終わり調子に乗って朝までゲームしていたのだが、この連絡を受け映像を自分が、MAを乙打さんが引き継ぎ編集した。
テレビ編集をしていた頃を思い出した。サブ出し(VTR)とスタジオの編集を繋ぐ俗に言う本編集。吐きそうになりながらも15時間くらい編集を続け翌日の0時に放送できた。しかし体調が悪い。放送後は酒を飲んで寝たが翌日すごい熱が出た。

何かがおかしい
陽性だ

まんまとコロナに罹ったのである。本放送の1週間前に動けなくなってしまった。喉も痛いし飯も食えない。流行り始めて2年以上経って初めてのコロナは苦痛だった。それでも木曜くらいには熱も下がり回復した。スタジオを確保し、必要機材のレンタルなどをしていった。

システム図を考えた
結果はこんな感じに

オフライン環境での放送

そして放送2日前になった。夜中に乙打さんとかっぱを回収し、自宅からPCを移動。那須ピーマンの家でもPCを回収してスタジオに向かった。ちなみに言うと、自分以外の3人をスタジオで降ろしてレンタカーを駐車場に返す際に曲がり角にぶつけて事故った。保険に入っていたのでなんとかなったが、この疲労が悲劇を招くことになる。

こいつはいつもこの服を着ている

ちなみに、このことを電話してかっぱに伝えたら「事故とかどうでもいいよ!那須ピーマンがスタジオの壁に穴開けてやばい!」と言われ少し安心した。何やってんだあの栃木肥満。
そして本放送の前日。前夜祭はなんとか終了し、ピザを食べていた。でも、喉が痛くてあまり食べられず、緊張で2日寝ていなかった。翌日に備え、近くの銭湯に行ったのだが、そこで1分くらい立ったまま気を失っていた。かっぱに「どうした?」と言われるまで意識がなかった。「俺…どれくらいここで立ってた?」と聞いたら1分くらいだったと言われ怖くなった。この日も酒を飲んで寝た。だが緊張で3時間ほどしか眠れず5時くらいには起きてしまった。スタジオで真っ先に起きて配信画面の確認をしていると他の人が起きてきた。「ついに本放送だね」と言われ、上手くいくといいなあと思っていた矢先。一瞬ふらついたと思えば目を開けたら救急車に乗っていた。
ぶっ倒れてしまったのだ。なんてバカなんだろう。この日のために1年以上も時間を費やしてきたのに大事な日に倒れるなんて。命に別状はなかったが大きな迷惑をかけたことで救急車の中では泣くことしかできなかった。同乗していたかっぱの手を握り「俺ってバカだごめん」と呟くことしかできなかった。
検査の結果は寝不足による疲労からくるものだと分かった。あと、コロナの後遺症の喉の痛みで飯をあまり食べていなかったのもあるかもしれない。
よく「俺全然寝てないわ」という人がいるが2日寝ないと人は倒れる。本当に気をつけた方がいい。

気づいたら救急車の中って結構怖いよ

本放送は上手くいった。この記事を読んでいる人なら多分見ただろうから詳細は言わなくても分かるだろう。その日は泥のように寝た。久々にたくさん寝ることができた。起きたのは次の日の昼。スタジオには那須ピーマンと咲崎さんしかいなかった。
「帰ろうか」
スタジオを片付けて、車に乗った。機材を返却しつつラーメンを食べて帰った。そして、家に帰りPCをつけようとしたら…………………つかない。電源がつかないのだ。メモリが移動の衝撃でぶっ壊れた。結局マザボとメモリとCPUをまとめて換えた。治療費とか入れたらこの時点で20万くらい吹っ飛んでしまった。音MDM天、金のかかる企画である。

まあDDR5にできたからいいか

その後は脳波の精密検査とかで入院してまた持っていかれた。やってられんてホンマ。ふざけるのも大概にしろ!と言いたいところだがこれは自らの体調管理不足なので何も言えない。
色々あったけどなんとか終わってよかった。
でも、結局音MDM天とはなんだったのかは分からなかった。
多分これからも分かる日は来ないだろう。
分かりたくないので次回が開催されそうになったら全力で阻止したいと思います。

当日の放送環境①
当日の放送環境②
放送終了時のOBS

皆さんもイベントを開催する際は納期とコロナと睡眠時間に気をつけてください。

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