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創作覚書_演出-Ⅲ

演出家の仕事が舞台上を”観ること”で、その上で"そこにいられる方法を考える"だとしたら、その方法に演出家の仕事の数々が表層的に現れてくると思っている。
そこにどのような思想を持っているかで、作品の好き嫌いが分かれる。
私としては、”そこにいられる方法”は役者及び役者以外の物(オブジェクト)やそれ以外の存在に対しても当てはめたい。
なぜ、そこに有るのか。

舞台上の存在には4種類のあり方があり得る。
・あるもの。(見える、聞こえる、観客の全員が認識しているもの)
・あるけどないもの。(例えば照明音響機材やそれをコントロールしているスタッフ、例えば観客自身)
・ないけどあるもの。(舞台に登場する大海原、役者の視線の先、役者の物語上の感情)
・ないもの。(舞台上に登場していないもの。観客の誰ひとり認識していないもの。)

4つめの不在を完全に証明することはできない。そのことを自分の劇団では”ゾーエー”と呼んでいる。これについてはまたまとめる。
それ以外の3つの存在は程度の差はあれど舞台上に存在しているはずである。
その定義をどこまで明確にしてあげるかが、”そこにいられる方法を考える”ということ。(これは舞台上で、また舞台以外の生活でも重要なことだと思っている。)

人は何か目的を持っていればそこにいられる。
目的があればそこにいることが楽になれる。
それは、まずは地面(場所)との関係でもあり、人との関係であり、また、物(オブジェクト)との関係でもあると捉えたい。
おそらく戯曲を主体とした演劇を考える場合は往々にして、”人との関係”を考えることになるのではないだろうか。いわゆる演劇。それはこれまでの演劇史の中で擦り倒されてきたように感じる。
場所との関係はどうだろう。
上演芸術が複製不可能なものである限り、その作品は場所性に対しても応答しうる表現であり、こうしてテクノロジーが自然そのものになったとしても、人間の認識に身体がある限り場所との関係の重要性はかわらないから上演芸術は面白い。その場所性に積極的に応答しているのが、野外劇やパフォーマンスアート、インスタレーションなど、いわゆる劇場以外で上演される作品だろう。そしてその中でも、もっとも応答しうるのがテント芝居だと考えている。これはテント芝居を志す理由のひとつ。
そして、その場所や空間、人からいくらか切り離されたところでやはり重視したいのが物との関係。ひとは、物がそこにあるからそこにいる、という状態もありうる。
あらゆる物が人の動きをアフォーダンスしており、結局その中でしか私たちは動いて(生活して)いないのかもしれない。(人が歩いたから道ができたのでは無く、山と山の間に歩けそうな場所があったからそこを道にしたのにすぎない。的なこと。)
その点から私にとって人形劇/オブジェクトシアターは最も重要で、”そこにいられる方法を考える”手立てになると考えている。

待つ芝居は難しい。
”待つ”。舞台上でひとりの役者がそこに来るかもしれない何かを待っている。
もちろん役者はその次の展開を知った上で待たなければならない。
そんなときに、待ちながらそこにいられる目的を役者に与えたくなる。
うまくやらないとあらゆる行為が白々しくなる。
人形劇の場合はどうだろう?
人形を扱う場合は、その人形が何かを待っている時、人間はその人形を支えながら、何かを”待たせている”存在になり得る。
つまり、ただそこにいるのでは無く、そこにあるものを支えるために自分がそこにいるということ。そのことは、その場所に役者をいさせやすくするように感じる。
人形を持っていれば、自分がそこにいることを許されたような気がして、そんな気がするから私は人形を扱うことをとても好んでいる。
このことは人形劇の根源的な喜びに通じている気もしている。

場所・人・物、それらとの関係を通じてそこにいられる方法を考える。

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