見出し画像

創作覚書 レジスタンス_抵抗

テントがテントたる所以に、抵抗の態度が含まれているのはおそらく本当のことだと思う。

”なぜ、劇場ではなく自分たちで空間を建ち上げるのか”。"なぜ、既設の野外ステージでもなくテントを用いるのか”。"なぜそこまでして演劇を行うのか”。
テントはひとりでは建ち上げられない。テントを設営するには人数が必要で、テントの目的は”観る観られる関係”を成立させるためのものであって、更にそこで上演される演劇そのものが意味(物語やドラマ)を必ずしも持ったものではない場合、この一連の行程に巨大なスペクタクルが出現する。意味と無意味、価値と無価値、存在と不在の入れ子構造が生まれる。
それがテント芝居の魅力である。

演劇をなんのためにやるのか。
演劇を問わず、そもそも論として、活動を続けるということは難しいことで、継続を目指しているうちに目的と手段がごっちゃになる。そもそも何がやりたかったのかがわからなくなる。継続するにはある程度の成功が必要で、成功とはある程度の継続の上に成り立っていくものだから。
だから、どこに主軸を置くのかが重要になってくる。

演劇にもそれ相応のシステムが存在している。
僕はそのことを詳しくは知らない。いわゆる業界のこと。
公演を成立させるには最低限あれとこれが必要で、そこにはそういうプロフェッショナルが必要で、そこにはそういう手続きが必要である。
できないことも多いし、できるようになるにはスキルとバックアップで支えてくれるクルーが必要になる。才能や運もたぶんいる。
そのシステムに最初から出会っていなくてよかったと、今思い返すと思う。
いきなりぶち当たっていたらたぶん粉々に砕け散っていた。

表現は初期衝動で十分でしょう。
技術や文脈は後からついてきたらいい。
漫画家が漫画を描きたいと思ったときに紙とペンを握りしめるように、演劇作家が演劇を作りたいと思い立った時に早めに演劇にありつきたい。ありついていいと思う。
そんなに複雑な手続きが必要だろうか?

とはいえシステムを否定しているわけではない。
組み立てられたシステムは安全だしクリアすれば形になるし健全であれば悪くない。健全であろうと日々悪戦苦闘している人たちがいることは尊いことだし、最近ではそういったオルタナティブな取り組みは公共劇場の中にも多いのではないだろうか。ひと昔前とはたぶん感覚が違う。
それは教育現場やビジネスや家族の在り方でもきっとそう。
新たな関係を築こうとしている。

テントの魅力は他にもたくさんある。
でもここで捉えたいのは、テントはたぶん可能な限り最低限の空間で、生きていくためには空間が必要で(野外ではやはりうまくない)、その空間を成立させるには集団が必要で、その集団で創作を行って、その作品を発表して観る人がいる、その一連のサイクル。
観る観られる関係はある一定程度信頼できる。
必ずしも観られることが目的ではない演劇もあるし、それにも興味はあるけれども、でもやっぱり対峙する関係にはプリミティブな魅力を感じる。
その一連のサイクルを自ら完結させているのが、テント芝居の一座の営みということになる。

そしてその営みには、やっぱりそれなりに抵抗の匂いがする。
自分でもなんでテントでと、思わなくもない。
しかし体験してみれば、やっぱりこれでしかあり得ないと毎回思わされる。
抵抗を自治と言い換える人もいる。
それも言えなくもない。ただ、今のところそこまで達成してふくよかなものではない。
なんとか薄皮一枚保つことに精一杯だということ。
そしてそれくらいでもいいということ。堅牢なバリアはなくていい。

”内側の時間”という作品で劇場の中にテントを設営してみた。
普段だったら舞台があるところにテントを組み、その中に客席と舞台を設ける。
設営するまではどういった空間になってどんな感慨が生れるのか未知だったけれども、やってみていくつか発見があった。
劇場でやるテント芝居も悪くないと思った。

野外であれどこであれ、テントはその区画分の面積さえあれば理論上はどこにでも建てられる。公園もいいし神社の境内もありえる。何もない野っ原も、どこかの駐車場でも海岸でも河原でも、山の上でもいいかもしれない。マンションの屋上とかも魅力的。
でも、そのどれよりも、劇場の中の、そもそも舞台があって客席があって、観る観られる関係がはなから成立しているところに、わざわざ部材を持ち込んで劇場の中にもうひとつの空間、テント劇場を設けてそこで芝居をするというのは、やっぱり紛れもなく抵抗でもあったのかと思う。
地球上でもっともテントが似合わない場所が劇場の中なのかもしれない。
ただ、この抵抗は不思議と居心地は良かったけれども。

何に対しての抵抗だったのか。
それはなんだろう。
意味への抵抗。システムへの抵抗。業界への抵抗。社会への抵抗。未来への抵抗。
それらをひっくるめて今のところ思うのは、自分への抵抗であったのかもしれないということ。
言い過ぎかもしれない。どうだろう。
今の自分から脱却したくて自分を自分でかなぐり捨てるために、集団で乗り越えるために、そこには現状の変更が必要で、それを含めて創作したい。
現状に安心しない、そんな状態を自分で自分が目指すために、テントっていうのはあるのかもしれない。
とりあえず、今のところ思うところの覚書。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?