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創作覚書_集団

作品の内容を作るのと同じくらい、その集団(座組)をうまく構成させるというのが、表現として重要になると思っている。集団そのものが表現になりうる。
集団の種類にはいろいろとあって、演劇内外でも、生きるためには集まる必要がある場合が多いし、集まった方が面白いことも多い。

私が所属している集団には、”劇団”という冠言葉をつけている。比較的一般的な名称の付け方。しかし最近では、この"劇団"を名乗る集団は少なくなっていると感じる。
中身としては劇団的集団であることは多いものの、必ずしも演劇的目的を持っただけの集団ではないという意味を込めたり、また、中身が作品によって流動的に可変しうる、という遊びを含めた言い方として”ユニット”とか”コレクティブ”、もしくは冠に何も付けずに名称のみを名前とする集団も多い。
演劇が境界線を操るゲームだとしたら、ここにもそういった意思が反映されている。演劇の境界線を拡張/不可視化しようとしている。
これは”演じること”自体の階層と繋がっていると感じるのでまた考察したい。

私としては演劇、及び集団には境界線があった方が有効だと考えている。
それは、”壁”は必要だと思っているということ。
理不尽な分断は許容しないものの、自分以外の他者との関係の中で必ずしも”開いて”一体になれるとはもちろん考えない。肉体や時間の制約、精神的な安息のためにその折々に適度な"壁"を構築できた方がいい。
ただ、その”壁”をうまく堅牢に作ることは望まない。向こう側の存在を感じることができない”壁”というものは嫌っている。壁は越えられたり、めくれたり、覗けるぐらいがちょうどいい。
これは物理的な意味での"壁"と、関係性の中での”壁”の両方を含める。

重要なのは、他者との関係を構築するときに、地面にどのように境界線を引いて、そしてそこにどのような空間を立ち上げるのか。
それは、テント芝居の場合は、物理的な意味ではテントだし、内容的な意味ではその作品を構成する集団(座組)ということになる。

座組に関する検討は、これまでの創作過程の数年で何度も繰り返してきた。
そしてそのルールは、おそらくひとつではないし尚且つ終わりがない。
その時々のキャラクターに応じて可変的にあり方を変えていくことが集団を存続させることのコアなのかもしれない。それがいわゆる収益を目的とした集団でない場合はなおさら。自らのうちに価値基準が必要になる。

ともあれ、この”壁”を考えるときに有効になってくるひとつが、"旅"だと思っている。
つまり"移動"、"時間の存在"。
集団であること、その集団が他の環境には属さないひとつの個体であること、そしてそれが移動することによってなりたつことがあるということ。
どうだろう。必ずしも移動が必要なのかどうかわからない。ただ、場所や空間、壁に合わせて、”移動”も重要な要素であることは間違いない。

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