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創作覚書_ゾーエーⅣ

”あるけどない”存在について考えることは、劇作としては珍しいことではない。
そのことについて表現している作品は最近かなり多く見かける。
だから、というわけでもないけれども早くこのテーマを突破したい。

“あるけどない”ための設定や、“あるけどない”ための方法、“あるけどない”場所やルール。それらについて自分なりの解決策を言及したのが、創作覚書_ゾーエーⅢの白いクラゲ(雲)だった。あれは、装置としてはあり得ると思っている。
ただ、それはひとつのきっかけにはなりうるけれども、答えはそれだけではないと思っている。切り口はいっぱいあったほうが良い。良いというかあるべき。

“あるけどない”存在を描きたくなる欲求というのはたぶん日常の見通しの悪さと繋がっている。
先が見えない、何を信じていいのかわからない、現実そのものが虚構まがいの日々の生活の中で、表現は常に弱者の方を向いている。
でもそれは、今だからそうというわけではなくて、小さい頃からそうで、見て見ぬ振りされる、常識の名の元に見過ごされる、不平等があるのに黙認される、そういった場面でマイノリティの声が小さく弾けて消えていく瞬間に何度も出くわした。最近、少しその瓦解が見られてきたけれども、それでも今だにマスのことはわからない。
マスのことは、数字だけで見ると日常で触れている時間が圧倒的に長いはずなのに、大きすぎて目に映らないから恐ろしい。自分が参加するコミュニティの偏りもたぶんある。
クラスの端っこでも、街の片隅でも、表現を介してマイノリティの力になりたいと思うから、確実にあるものの声を描けずに“あるけどない”ものをどう描くか、ということに注力しているのかもしれない。

それは、舞台上に何をあげるか(具象化するか)、ということに繋がる。(自分自身がどうあるのか、ということにも。)
ストーリーでそういった筋書きを描くものも多く見かける。
座組、役者の中にそういった立場の人物を配置する、というのもある。
人形劇でそのことを見るのも面白い。オブジェクトシアターに類する人形劇では人形使いが役を持っていて喋る。その場合、人形使いは黒子ではなく“あるけどない”存在に近づく。(最近見たオブジェクトシアターでも、人間の役の名前が『nobody(誰でもない)』だった。ゾーエー的な役だったと言える。)
オルタナティブな作家は常にその部分にチャレンジしていて、そうやって現実と虚構の境界線をいじっているのかもしれない。

まだある。
演劇における“あるけどない”ものは、例えば転換。
シーンとシーンの移り変わりのほんの一瞬。もしくはその見せ方。サーカスだったら大掛かりな装置の入れ替えの間にピエロの道化芝居が入ったりする。転換には、音響や照明の効果(まやかし)も大きく作用しているが、うまくやれば観客はその間に起こる時間や場所の経過を、“あるけどない”ものとして許容して(忘れて)本編が戻るとその世界に帰っていく。
だから転換を疑ってみるのも面白い。

それからもうひとつ、“ニセモノ”という存在についても触れたい。ニセモノ=無名性、とか。
歴史の正史に乗らないもの。
何者でもないもの。
権威的でないもの。
名もないもの。
無欲であるもの。など。
(固有名との関係とも繋がっているのかもしれない。)

その存在は、見捨てられているもの、見て見ぬふりされているもの、人、サービス、システム、仕組み、境界線と関わっている。

常に何者でもない存在として放つ言葉は、何者かによって発せられる言葉よりも時にその存在感が引き立つ。

ニセモノ=未完成=無名性を保ち続けることにも重要性を感じている。
ニセモノは、ネガティブな意味ではない。
現に、全国区の知名度がありながら絶妙に無名性も保ってバランスを取っているキャラクターはいる。
その所以はなんだろうと考える。
もちろん装置でも、場所でもルールでもない。
特有の態度だと思っている。

“ニセモノ”は常に何かを目指している。
“道”としての存在。
“時間”を有している。
“無名性”も“移動”と繋がっているのかもしれない。

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