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創作覚書 バランスの時代

これはあれだな的にいうと『悪は存在しない』はコンヴィヴィアル・テクノロジーで言うところの”2つの分水嶺”であって、下北沢国際人形劇祭で上演されたダラー・マクローリンの”STICKMAN(棒人間)”だ。
そのどれもこれもがバランスについて語っている。

イスラエルパレスチナ紛争をはじめとして、極めて複雑化した(一国の主権を争うだけの紛争ではなくなっている)今の時代において、何を語るべきなのか。表現者はその言葉を探している。
その答えのひとつとなるのが"バランス"だろうと思っている。
ものの正しさや間違い、正義や悪に関して一方的な側面からは決して言い表せない、ある種成熟した(来るとこまできた)現代において、これまでの歴史を踏まえ、その断絶や忘却の傷を、一方的な見方をした正しさで、道徳感で語るにはあまりにも即物的すぎるし勇気が必要だ。
それよりも中動態的なものや分からなさを容認するためのものを欲する。
ただ、不条理はもう使い尽くされた。
理解できない世の中を理解できないものとして扱ってるだけでは満足しない。世の中はますます悪くなる一方だ。
闇雲なスピードや合理性から切り離された指標で新たな”豊かさ”(ポスト資本主義)を実現させていくとしたら、過去(進展や成長)が悪なのではなくて、その”バランス”が重要なのだと言う視座に立ちたい。
(喧騒こそが平和なのだ、という見方にも通じる。)

濱口竜介監督『悪は存在しない』のなかで語られる、「俺たちもみんなよそ者なんだ。自然に手を加えすぎるとバランスが壊れる。バランスが重要だ。」とうセリフ(正確に記憶しているセリフではない)がこの映画の肝になっている。日本中で起きている人手・担い手不足のなかで首都圏から現れた芸能プロダクションによるグランピング施設誘致の事業話の持ちかけによって巻き起こる住民とのやりとりのなかで語られるこのセリフ、動かざるものと流動的なもの、その価値についての言及である。構造が明確に現代とリンクしている。誰もが抱えている問題、と言う意味では誠実である。

富が未来に向けて蓄えられるようになり、一定の量までのそれは豊かな感じがするが、ある一定の量を超えると一気にそれは卑しいものになる感覚がある。過剰な富の蓄積は、主従関係が発生しシステム(自然)の一部として生命よりも生産性を重視し始める。
太陽光パネルも、自分の家の屋根につけている分には自然エネルギーの活用として豊かに思えるが、メガソーラー畑になった途端に一気に副次的な災いをもたらす。自然エネルギーそのものが環境負荷になっている本末転倒はあまりにも滑稽だ。
そういったある一定の水準の中を上がったり下がったりしながら規模や質をキープする必要がある、というのを説いたのが哲学者のイヴァン・イリイチで、緒方壽人著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の中で何度か挙げられている。
豊かさを保つためにはある一定のところで規模を保たなくてはならない。
わたしも長らく、ある一定の水準の中で規定値を超えると豊かさの価値が一転するのはなぜなんだろうと考えていたのでこの考え方が参考になった。

そして、その”バランス”を作品として表出させるのに一際卓越していたのが人形劇(オブジェクトシアターとも括られる)でそれをやってのけた、ダラー・マクローリンの”STICKMAN(棒人間)”だろう。これは間違いない。
彼は、ひとつの棒とその棒を支える(指先に置いてその棒を自立させる)自身の関係性でもって舞台を成立させた。あらゆるルーツを持つ多種多様な生物/無生物の登場人物が”バランス”を語った訳ではない。表現の主役となったのは人間が棒を支える”バランス”そのもので、その”バランス”が自身の存在意義を語ったのだ、と言うことになる。
"バランス"自身の主張。
この作品はあまりに示唆に富んでいたのでまた別の機会に書きたい。


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