見出し画像

創作覚書 演出-Ⅱ

演出家の最大の仕事が”観るためにそこにいる”だったとして(まあ当たり前のことなんだけれども)、その上でそこで何を具象化させるのが優れた演出家の仕事なのだろうか。

表面的に答えると、それはたぶん舞台を構成させる要素の工夫(粋、ウィット)、ということになるのかと思う。
単純にシーンを構成させる時に、役者と空間、美術と音、光、それらの組み合わせとそれ以外の要素とのマッチング。
意外なシーンで意外な物と組み合わせたりするとそのシーンが妙に浮き上がって観えてきたりする。そういった工作の技術として、”あの演出が〇〇だった”とか評価されやすい。
映画やドラマとは全く違う、演劇には演劇特有のリアライズの手法があって、それがはまった時の高揚がある。(これは結構創作の基本として大事だし、それなりに継承できうる考え方の技術があると思う。それを学びたい。)
とは言え、"演出"ってそういうものでもない、という感覚がある。
つまり、個別の要素の創造性に対して使われる言葉なのではなくて、その底にある、もう少し大きな母体に向かって”演出”という言葉を使いたい意識がある。
演出家の演出は、必ずしも眼に見えるところに及んでいるわけではなく、正確には見えざる手によって誘っている部分の方が大きいと思えるから。

そうなってくると、"演出"とは。
あまり抽象的な解に結びつけちゃうと面白くないのだが、ひとまず"そこにいられる方法を考える"だと思う。

舞台芸術の場合、芸術そのもののメディウムが生きている人間で、それぞれに意思があるというバイアスが非常に大きい。ここを全然無視できない。人にはそれぞれ今考えていることがある。
それを無視せずにその上で、集団としての創作物を探究していく。それが面白みでもあるし肝でもあると言える。

ある特権的な階級や身分の人物のカリスマ性が芸術を成り立たせる時代ではない。どこまでも自立分散していって、もはやその最小単位の個人まで刻んでここから小数点以下ひっくり返っていくんじゃないかというような昨今である。でもだから近年の創作物は面白い。(しかしだからこそ、個々人の"演じる"という行為が今分裂しかかっているのかもしれない。また考察したい。)
舞台の上に問わずだけれども、舞台というのはやはりこの世で一番象徴的な場所であるので、その板の上でも”そこにいられる方法”を成立させたい。

そのテクニックは様々あると思います。
演劇の場合はその行為や発語に意図や意思、前後関係の繋がりを求められやすいからその点が難。意味のないものや、何となくそうしたいことの立場が弱くなる。
でもビジュアルとして成立していることが客観的にわかってきたり、舞台上の役者が主体的に経験できることがあればうまくいく。
もの(オブジェクト)に頼ることも大事。
いわゆるセリフや感情だけで舞台を成立させようとしてもつまらない。

そんな舞台作りですが、私が現時点で基調としているのは役者それぞれの”自主稽古”="ネタ出し"というもの。
それぞれが考えてきたシーンの断片を発表しあってそこからシーンを立ち上げていく。
毎週発表しては全員でその講評を繰り返す。繰り返していくうちに個人のネタがブラッシュアップされたり、自分では気が付いていなかった部分に気が付けたり、また、他人のネタからインスピレーションを受けたりする。他人のことを理解する時間にもなる。
以前作った銀輝(ぎんぎら)[2021]という作品や、内側の時間[2024]でもそれを採用していた。
これはそもそも、以前所属していた”劇団どくんご”で取り入れていた手法でもあり、ひとりの脚本家が世界を構成していくよりも、座組全体の集まったメンバーそれぞれで劇世界を押し広げていく感覚があってその価値を信用できる。
メンバーそれぞれから発想される多彩なシーンを目の当たりにすると、それらを舞台上で活かさないわけにはいかないと思える。自分ひとりが思い描く世界のなんと幅の狭いことか。

”ネタ出し”、これもひとつ、"そこにいられる方法を考える"だと思っている。
役者それぞれが発想した言葉や動き、場面のイメージや見える景色の鮮度は高い。
役者が主体的にそこにいられる方法のひとつだと思える。
やっぱり個人が書いた言葉をその本人から聞くというのは表現としてひとつの強みになりうる。美しい。
これらを、”そこにいられる方法”のひとつとして有効なんじゃないかと思って取り入れている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?