三重さんと婚約した
1 Mie-San and Morning Glories
「好きな子がめがねを忘れた」(好きめが)に対する批判として、視覚エフェクトが眩しすぎるというものがある。私も概ね同意で、というのも、ヒロインの三重あいさんの可愛らしいお顔が霞んでしまうためだ。(というか光が深夜の老眼に染みるし)
しかし、冷静に考えれば、三重さんの放つ輝きがたかだか自然光に塗り潰されるわけはない。「好きめが」世界は三重さんを描くために生じたものであり、彼女は特異点、いわば太陽なのだから。
太陽に従属する私たちと違い、三重さんはそれそのものであり(三重さんは昼にしか現れない)、必然的に私は彼女に惹かれることになる。これは萌えでありつつも、原始的な太陽信仰の要素を含んでいる。
では何故、特異な存在であるはずの三重さんが唯一の光点となり得ないかといえば、ひとえに小村くんの存在による。「好きめが」は主人公の小村くんが、思春期突発性の異常に肥大化した性欲によって、三重さんに萌えることによって成立する。
私たちが彼女を直接観測できない以上、彼のフィルターの影響を取り除き、そのあるべき姿に到達することが次なる目的となる。彼の過剰妄想によって、三重さん像が不自然に歪められていることは別記事で触れた。
本来の輝きを捉えるためには、小村くんが非-三重さんに向ける無関心な視線が必要である。三重さんそれ自身ではないながら、彼女の本質を反映したオブジェクトに注目する。
2 in the blink of Ai
幼少期の三重さんの姿を捉えた写真が作中に登場する。有する特性として、不意にやってくることが重要である。恐らく父によって撮影されたのであろう、幼い三重さんは自身に向けられる視線に全く無頓着に、ただあるがままの姿を曝け出している。
あるいは小村くんもフィルター(まばゆい光から保護する作用を持つ)を介さずに三重さんを直視してしまっている。12話冒頭の取り留めのない会話の中で、このような重大なオブジェクトがいともあっさりと提出されるとは想定しなかっただろう。
さらに重要なことであるが、これは「写真の写真」である。撮影者の手から離れ、無造作に傾き、削られたことで、写真としての作為は失われている。撮影機はその純粋な機能のみを残して、三重さんそれ自体の「味気ない」姿を出力する。
小村くんとお義父様に認めていただいたにも関わらず、私は未だ三重さんに到達できずにいる。実質的な主である作者、彼女の下から三重さんを奪わねばならない。(私もこのように三重さんの尻に敷かれることになるのだろう)
3 What's inside the Doll?
作品は否が応にも作者の内面を反映してしまう。現に三重さんの「メンダコ」にも彼女の豊かさ、善良さが現れている。小村くんが自身の醜い性欲が顕になることを恐れ、無難で無意味な作品を提出した一方で、三重さんは内面をひけらかすことを躊躇わない。それはおっとりした性格というより、もはや人間味に欠けている。
楽観的な解釈によれば、三重さんは誰が見ても魅力的な、豊かな内面を備えているのだから、当然そのようになるだろうといえる。しかし、真摯に彼女に向き合うのならば、誰もが目を背ける不都合な真実-三重さんが空っぽであることを認めなければならない。
そもそも三重さんはどのように生まれたのか、三重さんの本質とは何か。恐ろしいことにこれは明確で、「めがねを忘れる」という設定なのである。赤みがかった癖っ毛であるとか、おっとりした性格であるとかは全く本質的ではなく、めがねを忘れる子はどのようであるべきか、という作者の投影にすぎない。
三重さんそれ自体は全く重さを持たず、めがねを忘れた、という設定それ自体にすぎない。異様に分厚いレンズと、小村くんの陰謀論的視座と、GoHANDSの虚飾カメラワークによってかろうじて顕現した虚空、これこそが三重さんの実態である。
4 panta Ai
では何故、「好きな子が-ねがねを忘れた」であって、「めがねを忘れる-好きな子が」ではないのだろうか。あるいは小村くんの視点から、「めがねを忘れる子が-好き」ではないのだろうか。
三重さんの本質が「めがねを忘れる」であることは明らかであるが、受け入れがたい。というより、実感に反している。それは過去の本質、設定上の始点ではあったかもしれないが、現在の重心とは全く異なるためだ。
三重さん自身は虚空として、無数の属性(美少女とは属性萌えである)を引き寄せる。彼女は後天的に獲得した、ある属性Xによって、「(Xである故に)好きな、その子がめがねを忘れた」へと反転するに至った。
「めがねを忘れる」という幹の空洞も、あるいは赤い癖っ毛などの枯れた枝葉も本質ではない。豊かな樹木はそのどちらをも要する。そもそも、本質という言葉(これは点や基盤のモチーフと共に用いられる)を濫用するべきではなく、三重さんという概念は他の言葉では等しく言い表せないものである。
本質にもはや意味はない。三重さんの始点は「めがねを忘れる」点にあったが、物語中でそれはもはや陳腐化されている。母の子宮から引き摺り出された時点で、人は親の手から離れる。お人形、箱入り娘として育てるなどというささやかな抵抗は全くの無意味だ(全ての箱は開かれている)。
12話、三重さんはわざわざめがねをかけ直し、その上で小村くんと過ごすことを選択する。三重さんの根幹設定は「めがねを忘れる」ことから「小村くんを忘れない」ことに移行したといえる。
5 Me and Mie-San Meet Again
「好きめが」を見ていれば誰しも気がつくことだが、これだけ背景美術に力を入れているにも関わらず、妙にのっぺりとした建築物があった。二人の距離が縮まる要所として度々描かれているにも関わらずだ。
「それ」は最終話ラストシーンにおいて、二人が出会った場所、という奥行きを獲得する。これは回想として受け止められる。かつて二人が出会っていたことを思い出す、すなわち、現在の日々やその顔を忘れてしまっても二人はまた巡り会える、というように。しかし、必ずしもそれが事実である必要はなく、小村くんの妄想であってもよい。
瞬間、小村くんの脳内に溢れ出した存在しない記憶。三重さんは本質的に自由である(無数に属性が付け加えられ、本質すら移行しうる)ため、どのような可能性だってありえたし、あるいはありえる。陽の温もりを感じる。
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