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解呪

今さらと言えば今さらなのですが。

覚え書き。
長いよ〜笑

いつだったか「どういう人が好き?」と聞かれて「涙を見せられる人」と答えたことがありました。その言葉に嘘はなかったのですが、数年後に致命的な思い違いをしていたことに氣づきました。

当時脳裏に浮かんでいた人に見せていた涙、あれは違うよなぁと。。

イッパイイッパイ言いたいことを飲み込んで、でも責められて決壊しちゃった感じ…

私が望んだのはそれじゃない。
あのときも明確にそう感じていたはずだったのに、どの辺から勘違いしてたのだろう? 

眺めていて思い出したのは保育所〜幼稚園辺りでした。

私、かなーりいじめられっ子で物理的にもかなりやられたのですが、助けを求めることはせず、かといって理不尽な要求に屈することも泣くことも一切しない子どもでした。警戒心がすごく強かったり(臆病ともいう)、泣いたら負けと思っていた節もあるけど、信用してない人間に涙を見せたくなかったのです。

髪を引っ張られるのが嫌だからと(理由は言わず)お氣に入りのロングヘアをショートにしたり、大好きだったキティちゃんも、ハンカチや靴を奪われて捨てられてからは「嫌い」って言ってみたり…etc

好きなものを好きって言っちゃうと奪われてしまうと思って恐かったんだよね…

小さな頭で彼女なりに一所懸命考えて戦った?結果なのですが不器用すぎるやろー😂

自分を守るためだったとは言え結果的に自分の氣持ちに嘘を重ね、そういうことを繰り返すうちに本音が分からなくなってしまったのよね。泣き方も分からなくなっていました。

そうやって何十年も我慢し続けているうちに胸を圧迫する“塊”は氣づかぬうちに限界を迎えてしまっていました。だからとにかく涙を流すきっかけが欲しかったのよね…

本質的からは逸れていましたが、曲がりなりにも?とりあえず?のガス抜きは出来てはいたので、一応目的は達成していたのかもしれませんが。。

最近特にニュースとかみていると「あぁ!?」って言いたくなることだらけなのですが、これって今に始まったことではなく遥か昔から嘘に嘘を重ねてきた結果なのですよね。
歴史を辿っても嘘嘘嘘…真実にはたどり着けないよう何重にもベールが掛かっていることにうんざり、絶望的な氣持ちになっていまうのですが、同時にモヤモヤ苛々も感じていて、ふと「これって他人ごとではないのよね」ということに氣がつきました。

仕事に於いてずっと感じていた憤りも正にこれでした。

でも古今東西の他人様を責めたり批判してもきりがないし、なーんにも変わらないよね。
自分の人生においてもそのことは何度も何度も経験してきたはずです。

「大河の一滴であれ」

いつの頃からか意識していることでしたが、本来の意味以上に自分の正義や正当性の主張が強く、いつも心のどこかで他人を責めていました。。

膨大な量の手が届かないことを憂うより、一番近くに在ること、自分のことには他の誰でもない「自分が」責任を持たなければね。

今の私にはあの頃の私が自分を守るためについたような嘘はもう必要ないし、回収しきれない過去をほじくる以上に「今これから」嘘なく生きることはもっと大事。


何の話だっけ??ってなってきましたが、無防備に涙を見せられる、氣を許せる相手の存在って私には大事だなぁと改めて。

ただし、嘘という鎧で固めたままの自分ではそういう人や場としか引き合えない。

まぁイタ〜イ思い違いも自分が創造した世界がそれだったのだから、ある意味オーダー通り。自責なのですが😂

世知辛い。笑


でもとりあえずここは解呪できたかな。

出来たと思いたい✨