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5年後

5、6年前、雪がしんしんと降る京都の街の真ん中で、傘もささずに失恋ソングを大声で歌っていた夜が懐かしく思えた。当時、一緒に騒いでいた友人と3年ぶりに再会した。空気感や在り方は当時と変わらず、責任と覚悟と自身が私にはかっこよく視えた。

きっかけは友人のFacebookの投稿で、少し仕事を手伝って欲しいという内容だった。制限が少しずつ緩和される世の中でうずうずしていた私は「お呼びでないかもしれないけれど。」と控えめにメッセージを送った。

普段は乗らない電車の時間を調べ、何十台も街中を走るバスを乗り継ぎ会場に着く頃には初夏を思わせる太陽の日差しに煽られすでに疲労していた。年齢を重ねた所為もあるかもしれない。

集合時間の30分前に会場につき、待ち時間に終わらせたい仕事を進める。進めたいのに電源がない時に限って充電をし忘れる癖をなんとかしたいと思った。



少しだけ緊張したけれど、任された役割は真っ当できたと思う。もっと「ああすればよかった。」とか「もう少し、良くできたんじゃないか。」とか、そう思ってしまうのではないかと思っていた。
自分でもここまでできるとは思わなかった。
人は普段は置かない場所に自分自身を置いてみてあるいは挑戦してみて、自分が変化していることに気が付くのだ。とも思った。



変わったのはその場の誰かに「承認」を求めなかったこと。
「私はこう思う。」とか「こんな風だったよ。」と、その日結果しか声に出さなかった。
これまで癖になっていた「私がこうしたらたから、こうなったの。」みたいな、本来要らなかっ台詞は口から出てこなかった。

私が私をちゃんと見ていると要らない接続詞やダサい前置きは消滅するらしい。



5年後はどんな世界になって、どんな人たちと何をしているのだろうか。
最近は良く考えるようになった。
なんとなく生きるのを辞めたいと思ったから、今日もこの文章を書いている。
明日の私は何を考えていて、1ヶ月後の私をどう創っていくか。と作戦を立てている。少し先の未来を想像すると今日も楽しく生きているな。なんだかフワッとした気持ちになった。

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