顔のない双子
照井翠『龍宮』(2013.7角川書店)が刊行されてから、一卵性双生児の一人としてその中の句に衝撃を受けてから、五年になる。
双子なら同じ死顔桃の花 照井翠
「ウラハイ」の2013年3月11日の「月曜日の一句」で相子智恵はこの句を以下のように読んでいる。
発表当時も話題になった句だ。むごい事実でありながら〈桃の花〉の安ら
かさを同時に見る作者。桃の花の咲き乱れる天上で、安らかであってほし
いと願う心。その「かろうじての正気」を保った虚実の混じった句を、二
年後のいま、静かに読みたいと思う。
相子は〈双子なら同じ死顔〉という「むごい事実」と桃の花の取り合わせに「かろうじての正気」を保った虚実の入り交じりを指摘する。ここにおける虚は安らかさを見出す桃の花斡旋であり、実は〈双子なら同じ死顔〉である。では、〈双子なら同じ死顔は〉その何をもっていかなる実なのだろうか。書かれたことをどこまで実と言いうるのだろうか。
双子という枠でふたりの人間を見ることでそのひとりひとりのわずかな差異が捨象される。では作中主体はそのふたりの一人一人を見ようとはしていなかったのか?それを断ずるのに、この句の背景は、この句が震災下に詠まれたものであることは切り離せないだろう。『龍宮』のあとがきの作者の被災時のメモの一部を引く。
戦争よりひどいと呟きながら歩く老人。排水溝など様々な溝や穴から亡
骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようと
もがく形の亡骸、もはや人間の形を留めていない亡骸。これは夢なのか?
この世に神はいないのか?
これを読むことで作者の置かれた状況を分かった気にはなりたくない。だが、作中主体は双子の死に顔を見ていないのではなく、見ることができなかったのではないか。そして、それでも、書かずにはいられなかったのではないか。われわれは自分の身の丈を超えるものに出会ったとき、言葉を探してしまう。言葉にしてしまえば記号として認知できるからだ。その点については関悦史が次のように指摘している。
ここでの(『龍宮』における震災詠の)句作は、大災害の表現不能性に直面
することではなく、涙を誘う程度には理解・受容の可能なものへと震災を
スケールダウンしていくことにひたすら奉仕しており、この句集の達成と
限界はいずれもそこにある。
関悦史「俳句形式の胸で泣く」「週刊俳句」2012.12.16括弧内は青本注。
そう、この句もまた切実なところから、書くことで受け入れがたい事実を受容して正気を保つためにそのぎりぎりのところから書かれている。
ただ、それでも。どうしようもなく。
富澤赤黄男の警句を引こう。
蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない(「クロノスの舌」)
これを掲句にあてはめるならば、双子はまさに〈双子〉であるが、〈その双子〉ではない、となる。掲句はもとの文脈を離れたところで、同じように死ぬ(それは同じよう生きることをも彷彿とさせる)ことを双子のテーゼとしてしまっている。句中の双子が言葉の双子となることで普遍化されてしまうのである。一卵性双生児である身として、どうしてもそこは諾うことができない。〈双子なら同じ死顔〉はテーゼ化することで虚に傾きかけているのではないか。あたかも厳然とした現実のように書かれていながらにして、どこかそらごとのような風合いがただよってはいないか。
お断りしておくがここで掲句を否定したいわけではない。ただ、書かれたことが言葉になることの固有性を捨象する作用に、「見ているように書く」ことの限界と、ときにそれがはらむ倫理的な問題を感じざるをえないのだ。
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