何によって知ることができるか(ルカによる福音書 1章18節~25節)

 ルカによる福音書は、医者ルカが、テオフィロという人に宛てて、報告書としてまとめている。ローマの高官に宛てた報告書である。自分の思いや感情によるのではなく、順序正しく書いている。ルカの特徴は、正確さである。自分の思いを殺してでも客観的、冷静な報告書をまとめることであった。これが、ルカのスタンスであった。医者である。イエス様は、多くの癒しの奇跡を行なっている。医者ルカは、そのときの客観的な当時の医学の知識を持って描いている。

 祭司の話から始めている。マリアを祝福したという伝承のある人である。奥さんは、マリアの親戚であった。イエス様とこのヨハネはいとこ同士なので、とても関係が深い。アロンの家柄とは、モーセの兄、アロンの家系ということである。神の国、イスラエルに入れられる「非の打ち所のない」正しい人であった。にも関わらず、彼らには子どもがなった。当時、子どもが神の国に生きることによって、その祖先も神の国に入れられると考えられていた。それによって、救いは完成される。復活という発想もなかった。自分の子孫の中に、自分の魂が宿り、自分の子孫がそこに入るときに、先祖として神の国に入れられることが、神の国に入れられるということであると信じられていた。
 ところが、エリザベトは不妊の女であったので、二人には子どもがなかったのである。こののち、イスラエルに救いをもたらしてくださいと祈る務めを祭司として行う。ザカリヤとエリザベトはその神の国にはいることができない、と理解されていた。非の打ち所がなく、律法を守っていたが、神の目から見ると、神の国に入れられないものであると思われていたのである。イスラエルの代表として、救いを祈っていながら、自分たち自身は、その救いに入れられない。その心中は察するに余りある。
 物語としては、赤ちゃんが与えられてよかったということになるが、この喜びは、二人にとっては、イスラエルの救いに入れられたということを示しているのである。この物語が、福音書のスタートになっていることはおどろくべきことである。

 天使が出てくる。ガブリエルである。当時の人々がよく心に留めていた預言を観ておきたい。新約聖書の直前の書である。

 マラキ3章19~24節

エリヤ預言である。救い主が来る前にエリアが来る。義の太陽とは、救い主である。ローマ帝国の太陽神、ミトラス神の誕生日は、12月25日である。その誕生を祝う日に、キリスト者たちが私たちの救い主、義の太陽である、エリアの後に生まれた救い主の誕生を祝ったのが、クリスマスの始めである。

ザカリヤは、マラキ書の預言が実現するように祈っていた。イスラエルの国を代表して祈っていたのは、あのマラキ書の預言が実現することである。あなたが、いま至聖所で祈っているその祈りが、まさにいま完成する。そのために、エリアが地上に送られる。それがヨハネという名で登場するのである。感動する場面なのである。そういうときに、ザカリヤが言ったのがこのセリフなのである。
「何によってわたしはそれを知ることができるのでしょうか。」
人間とは面白いものである。ずっと祈っているのである。祈っていて、その祈りを叶えてくださることがある。そのときに、「神様ありがとう」ではなく、「なんで?」と思う。隣接地が買えるようになるように祈ってきたではないか。ずっと会堂が新しくなるようにと祈っていたが、能登半島地震でいよいよその祈りが叶えられるときに、この会堂が好きなので壊さないでほしい、と。自分の願いが叶おうとするときに、ずっと祈ってきたはずなのに、「なんで」と思う。まさか、そうなったときに、ええ?と思う。
また、ザカリヤは、イスラエルの救いの前に、自分の救いの事のほうが先に口に出る。弱さではない。正直なのである。これが、人間である。救い主の到来を祈っている。でも、自分が神の国に入れられることのほうが大事なのである。そのことを言った途端に、天使はトンチンカンなことを言う。
ルカ1:19~20

天使ガブリエルが、ザカリヤに告げたこと。「口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。」これは、なぜか。ザカリヤの心の中にどんな心の動きがあったのだろうか。そして、ガブリエルがそのことを見ぬいたのは何か。時が来れば、実現する私の言葉を信じなかったからである、と書かれている。ザカリヤは何に抵抗していたのか。
それは、神様がこの歴史の中に介入してこられるということである。神様を礼拝することはできる。ともに祈りを合わせている。しかし、神様が歴史の中に入ってきて、働かれることは、なかなか受け入れられない。神様の方が、あなたのところに来られた。アブラハムのところに、ヤコブのところに、神様が降りてくる。モーセのところに降りてきて、奴隷を開放しろとおっしゃった。サムエルに直接語りかけられた。
神様が歴史に介入してこられたのが、聖書の歴史である。エリヤを地上に送ると言われたのである。最初にそのことを聞くことになったザカリヤは、「何によって知ることができるか」と言ったのである。神の言葉に対する保証を求めたのである。神様の言葉だけでは納得できないから、証拠を示せと言ったのである。それが、罪だと知っておかねばならない。信仰は、仰いでその言葉を信じるから、信仰なのである。証拠を求めたり担保を求めたりするものではない。
神の言葉を信じなかったからである。天使ガブリエルの言葉を信じることができなかったからである。同じことが、来週も出てくる。マリアである。「お言葉通り、この身になりますように」これが、マリアの信仰である。神様の心に耳を傾けるとは、そのようなことである。あちこちで結婚式をするが、それまでの間、どれだけプレゼントをして、それが証拠になるわけではない。プレゼントはプレゼントである。証拠ができるわけではない。言葉が一番大事なのである。あの言葉がすべてなのである。心を表すのは、言葉だから。神様は言葉と心をひとつにして、行いをもって保証してくださる。証拠があるとするなら、神様がいままでなして下さった歴史である。私たちは知っていなければいけない。本当の喜ばしい伝えが、このガブリエルによって、ザカリヤに伝えた。それをそのまま感謝して、本当の救い主がいつ到来するのか、わくわくしながら待つこと。それが、一番大事である。神様の言葉をそのままに受け入れて、その御言葉通りになるようにと願うこと。
神様はいつでも、必要なときに歴史の中に介入してくださる。
(2011年10月30日 釜土達雄牧師)

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