この子の名はヨハネ2(ルカによる福音書 1章57節~66節)

 ザカリアの賛歌である。マリアの賛歌に対して、このザカリアの賛歌は、あまり知られることがない。ふたつの賛歌には、大きな違いがある。最初に、これらの賛歌のいくつかの違いについて耳を傾けたい。

 まず、マリアの賛歌にはないポイントがある。この賛歌の中にあるのではない。この賛歌を口にしたザカリアにある。若きマリアとは違う。ザカリアは、人生の辛苦をなめた老人である。マリアに対して、ザカリアは老人の賛歌である。ただ老人であるというだけでなく、ザカリアの賛歌は、どのような状況で口にされたかというと、この子の名はなんとつけたいか、と問われたときに「この子の名はヨハネ」と書いて、たちまち口がきけるようになったときである。彼は、口がきけなくなっていた。

 このように神の裁きによって口がきけなくなっていたところから、開放されたときに歌われた。ひとつ、老人の賛歌であること。ふたつ、神の裁きからの開放の賛歌であること。なにゆえに、ザカリアは言葉を失うことになったのか。

ルカ1:12~20

時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。信じなかったからである。ザカリアの賛歌は、マリアの賛歌とは決定的に違う。主なる神の言葉を信じることのできなかったものの賛歌である。時を得て、主なる神によって許されて口がきけるようになったときに歌われた賛歌なのである。人生の重みが違う。それが、ザカリアの賛歌の特徴である。マリアの単純素朴な信仰と賛歌に共感する。彼女には未来と夢がある。これから起こってくる人生に対して、若きゆえに恐れること無く向かっていけたのはマリアである。馬小屋で子どもを産んでも、夫ヨセフだけの手を借りて出産に臨もうとも、エジプトへの逃避行があろうと、それを乗り越える若さがある。
しかし、ザカリアは違う。ことの有り様が分かっている年老いたものである。マリアは素朴な信仰で語った。しかし、ザカリアはそんなことがあろうことがないと言うほど、人生に対しては冷静であった。神についても神の業についても充分な知識があった。マリアは聖書の知識のない田舎者であった。ザカリアは、神の前に立つことを許される祭司であった。主の至聖所に入って、全イスラエルの代表として神の前に立つことが許されていた。そのザカリアの賛歌なのである。神の全能をマリアのように信じることができなくて、裁かれたあと、ゆるされたときに歌われた賛歌なのである。
なぜ、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を信じることができなかったのだろうか。最初に神様が語ってくれたにも関わらず、その言葉を信じることができなかったのか。

ルカ1:18

私は老人ですし、妻も歳をとっています。若い時は読み飛ばしていた。私も56歳。私よりも年上の人は、まだ若いと言われる。いつまで経っても追いつくことはできない。年上の人は、まだ若いと言っても、いつまでたっても年上である。昔は56歳とはけっこうな歳だと思っていた。70歳、80歳といった年齢の方々から見ると、若いだろうが、50歳を過ぎて分かることがある。昨日出来なかったことが今日できる喜びの中に生きている幼稚園の子供たち。行ったことがある、食べたことがある、触ったことがある!昨日、知っていたはずなのに、あれ誰だっけ。昨日できたことが、今日できない。歳をとるとは、そういうことである。喜びとかなり違う。歳をとって分かることがある。若い幼稚園の人が走ったりしているときに、無理に重たいものを持たないようにする。体を動かさないで、なるべく口だけ動かすように。ようするに、歳をとらなければ分からないことがある。ザカリヤは、マリアとは違う。エリザベトも違う。アブラハムやサラと同じように、歳をとっていた。お医者さんに行けば、病気にみつかる。当たり前である。歳なのだから。だから、もう遅い。自分に残されている時間はもうわずかしかない。天使ガブリエルが、その子は喜びとなると言っても、何をいっているの、となる。自分に残されている時間が未来に対するチャレンジもできない。新しいことをしようという気になっても、先が見えている。できるはずがない、そう思う。だから、ザカリヤは言う。わたしは老人ですし、妻も歳をとっています。未来を見てもいけない。彼らに委ねていくしかできない。私がそれを担っていくことはできない。覚えておいたら良い。神様の祝福をいましっかりとうけ、担うことができないと考えるのは、罪である。神の業を担うことができないと考えたところに、ザカリアの罪があったのである。そのような未来に対するあきらめ、絶望こそ、神の前での大いなる罪と言って良い。
コリント13章の愛の賛歌の中にこういう言葉がある。信仰と希望と愛。希望とは、未来を見るということ、未来を信じる、未来を望むということである。その3つは残る。最も大いなるものは愛だが、信仰、希望、愛は残る、と。しかし、ザカリヤはもう歳をとっているという。

よく水谷歌子さんが言っていた。もう歳なので、何もできません。よく、年取って何もできないというのはダメだとよく言っていた。時間があるというのは、とても良い。一番してほしいことは、掃除洗濯ではない。奉仕をしてくださることは、とてもありがたいことである。教会学校の奉仕もありがたい。教会にとって、もっとも大事なことは、願いをもって前に進めていこうとして、一番大事なことというのは、神様がその気になることである。そうすれば、何でもできる。この礼拝堂に満ちるような人をあふれるようになる。駐車場も礼拝堂も、私たちの力ではない。神様がその気になってくださるということが一番大事である。どうすれば、その気になってくれるのだろうか。花を飾ったからといって、神様がその気になるのではない。掃除をしたからといって、神様がその気になるのではない。オルガンも教会学校の礼拝も、受付の奉仕も、いろんな奉仕があって、それは全部大事なことであるが、かといって神様がその気になるわけではない。それは、神様に祈ることだけである。神様、なんとかこのようにしてください。祈りによって、神様はその気になる。水谷さんに、言っていた。祈ってくださる。神様をその気にしてください。礼拝に出ること。毎日のお祈りで、ちゃんと神様にお祈りしてください。神様をその気にしてください。労働奉仕をしてくださる若い人達は、その役割を担っていてくれる。彼らの健康を守ってくれるように祈ってほしい。御言葉が正しく語られるように、奉仕者を支えてください、と祈ってください。神様をその気にしてくださる信仰者になれる。お歳を召した方々に、それを頼んできた。
ザカリヤは天使に言った。私は老人ですし、妻も歳をとっている。すると天使が言う。

ルカ1:19~20

ザカリヤは、祈る言葉を神から取り上げられたのである。神に願う言葉を取り上げられた。この時代の祭司たちは言葉にして祈っていたのである。言葉を取り上げられるということは、祈りを取り上げられるということであった。彼の信仰に対する、神様の大いなる裁き。まさに不信仰に対する神の裁きが、祈ることを取り上げられたのであった。ここもとても重要である。ガブリエルの言葉というのは、祈りを取り上げるのだが、「この事の起こる日まで」と書かれている。そう、祈りの言葉を取り上げられるのだが、死ぬまで祈ることを許さないのではなく、このことを実現したときに、神への賛美の口として戻されるというのである。そして、その最初の賛歌が68節から始まるのである。この最初の言葉は、味わい深い言葉である。
タイトルには、ザカリアの預言と書かれているが、これは賛歌である。これが賛歌であるということを言うために、ここまで話した。神様の約束というのは、歳をとっていようと、神様が決断さえすれば、実現された。語られた言葉は実現される。祈ることもできなかったそのときに、絶望していたそのときに、天使の言葉を嘲笑っていた本人が、すべて神の業が成されていくのと見たときに、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」と。聖書の知識があったから、祭司の務めをもっていたから、彼の言葉が心の中で味わい続けていた。彼は信じたのである。わが子が約束の子であったことを。どのような約束の子か。それも、ガブリエルから聞かされていた。

ルカ1:13~17
彼は主の御前に偉大な人になる、ぶどう酒や強い酒を飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。

聖書の知識のある人なら知っている。この言葉がどこにあるか。知っている。この預言がどういう預言か、知っているのである。旧約聖書の最後マラキ書である。

マラキ3:23~
見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

ザカリヤが感じたのは、主の民に
憐れみの心によって遣わされるということである。
イスラエルの信仰によってではなく、不信仰な自分のところに、神の憐れみによって
神との間の平和を得ることができる。そのためにこそ、バプテスマのヨハネが我が子として生まれた。これは、割れたの神の憐れみの心による。憐れみよって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の
クリスマスとは、そうやってやってくる。絶望の中にいた彼のところに、天使ガブリエルがやってきた。ザカリヤの賛歌は、歳をとったら、読み続けて欲しい。マリアの賛歌よりも味わい深い賛歌なのである。

(2011年12月11日 釜土達雄牧師)

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