あなたがたを覚えて祈っている(ローマの信徒への手紙1:8~15)
1章1~7節について、何度も御言葉に耳を傾けてきた。ほとんどが、1節と7節に集中して基本を抑えてきた。そして、今日のローマ訪問の願いの箇所に入る。ローマにいるキリスト者に向けて書いていると思ったら、この言葉がわからないだろう。「ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせたい」と。使徒言行録の19章にエフェソでの騒動について記されている。
使徒言行録19:21~22
パウロはこのようにして、ローマに行くことを願い、実際にこのときにローマの信徒への手紙を書いている。その後、ローマに向かっていくときに囚人として護送されていく。使徒言行録の一番終わりに、比較的自由に行動することができたことが分かる。今日のテキストからいえば少し前、28章にこう記されている。
使徒言行録28:17~20
おもだったユダヤ人たちを招いたのである。そのパウロの言葉を聞いたローマにいるユダヤ人たちが語った言葉である。
使徒言行録28:21~22
「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至ることろで反対があることを耳にしているのです。」
直接聞きたいというのは、間接的には聞いているということである。間接的に聞いていたというのは、このローマの信徒への手紙なのである。たがいに読み合わせていた。そうやって、彼らは読んでいたのである。しかし、パウロが来たときに直接聞きたいと言ったのである。つまり、彼らはユダヤ人なのである。キリスト信者ではなく、ユダヤ人なのである。それが分かっていると、8節がとても重要になってくる。
ローマ 1:8~10
パウロがこのように語っているのは、キリスト者に対してではないのである。あなたがた一同についてわたしの神に感謝する。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている。祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こしている。
キリストの福音を聞いていない人たちに対して、パウロが何と言っているかをしっかり聞いていなければいけない。パウロが語っていることについて、心して聞いていなければいけない。彼らを通して、主なる神は福音を述べ伝えようとしたのである。ユダヤ人たちに対して尊敬と敬意を持って語っていることを見逃してはならない。10節にあるように、祈るときには、いつもあなたがたのことを思い起こしている。
祈りについては、心して自分の生活の中においていただきたい。祈りを軽んずることはあってはならない。ねばならない、ではない。祈ることは、恵みであり感謝である。よくよく覚えておいていただきたい。キリスト者のひとつの習慣があって、食事の前に一瞬固まる。教会に行くときに重たいカバンを持っていくこと。日曜日の朝から行く。どんなに良い天気でも。そしてまた、食事のときに一瞬固まる。そうやって小さいときから、小学校のときから給食のときからお祈りをしていた。夜寝るときにはお祈りをすること。それは、とても正しい習慣だと思うが、子供のときには少々苦痛であった。
富来伝道所に神崎さんというおじいちゃんの話をきいた。神様、今日もたのんまっさ。という。漁師だった。自分のために祈るときには、すっ飛ばして祈る。うめきであっても、神は祈りとして聞いてくださる。形式はあまり問われない。しかし、とりなしの祈りをするときには、こころして祈らなければならない。ちゃんとその人の心に浮かべるだけでなく、その人の名前を書いた紙を置いて祈れ、と教えられた。
腹話術の春風一郎という師匠のもとで学んだ。一年間、一緒に行動した。夜9時には寝てしまう。4時くらいまでワイワイやっていたときがあった。師匠これから何をするのか、と聞いた。これからお祈りするから、来るなと言った。約1時間かけて、20人ほどの教会員。1ページごとに一人一人。これが、わたしの祈りの習慣の基本である。指をあてて、一人ひとりのために祈っていくという牧師がいることを知った。その師匠のやり方を真似ている先生たちが何人もいることも知った。春風八郎という岸井先生にこういわれた。牧師になるなら、ぜったいにしたらいけないお祈りがある。全世界のためにというお祈りはしてはいけない。みんなが幸せになるように。それはしてはいけない。びっくりした。それは、適当に言っているだけだからである。このことばの意味を理解するには、相当、時間が必要であった。この人達みんなが幸せであるように、といったほうが楽だからである。それは、名前だけ言っていって、みんなが幸せであるようにと言ったほうが楽である。その一人ひとりのことを考えていないということである。気にしていないということである。
青春時代の思い出である。幼稚園の仕事をするようになり、子どもたちの名簿まではすることはしていないが、職員名簿はもらっているのは、そういう理由である。名前だけでは分からないので、写真付きでもらっている。大切なことである。みなさんもぜひ、とりなりの祈りをするときには、心を込めて丁寧に祈っていただけたらと思う。パウロはそう語っているのである。御子の福音をのべつたえながら、こころから神に仕えている。その神が明かししてくださることですが、わたしは、祈るおt機にはいつもあなたがたのことをおもいおこし、なんとかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように願っている。その相手は、キリスト者ではないのである。パウロはそのような習慣の中に行きていたのである。そして、わたしたちにも同じように求められている。なぜなら、祈りは全能の父なる神様への直談判であるからである。この世界をつくり、支配をし、その神に直接語りかけることができるのは、キリスト者だけだからである。
七尾市長さんに会うにも、議員さんがいないとなかなか会えない。知事に会いにいくとき。ましてや、総理大臣のところに行こうと思ったら、どれほどのことをクリアしなければいけないか。トランプ大統領に行こうと思ったら、大変である。しかし、全能の神様に語りかけるのは簡単なのである。それを、神様が約束してくださっている。祈りは神への直談判である。パウロはそれを自分のためにではなく、異邦人のためにそれを行っているのである。わたしたちが、礼拝に集っているわけでもない、愛する人たちのために祈ったからといって何がいけないのであろうか。
なぜ、パウロは祈っているのか。あなたがたのところに行きたいと願っているのか。その理由は何なのか。それは11~12節にかかれている。霊の賜物をいくらかでも分け与えたい。互いに励まし合いたい。力になりたい。それが、パウロの願っていることである。福音が力になるのである。来週、私たちが耳を傾ける16~17節は、パウロの語った短い言葉としてとても有名なところである。
ローマ1:16~17
パウロは、なぜ福音を告げ知らせたいと願っているのか。それは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になりたい。それは、救いをもたらす力だからである。わたしたち人間は、どうしても、人の目をしてしまう。しかし、聖書が語っているのは神様が私をどうみているかということなのである。ノアの箱舟の話を何度も聞いた。神の目から乱れていたのであって、人間同士のなかで、乱れていなかったのかもしれない。必要なのは、神様との間の平和なのである。神とのあいだに平和がない限り、わたしたちを滅ぼされるに違いないのである。
マタイ1:26~31
イエス様の言葉である。人々を恐れてはならない。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
1ドル札を持ってきた。ピラミッドの上に目があるのを知っているだろうか。1ドル紙幣を使うときから、あなたがこのお金を何に使うか、神様の目が見ている。あなたのお金の使い方は神様が見ていらっしゃる。お金の流れは心の流れ。何をするにも、神様が見ておられるということをちゃんと見ていなければいけない。だから、福音が力になるのか、忌まわしいものになるのか、一人ひとりの信仰によるのである。
私たちは祈りによって、神様から福音を預かるものとして、多くの人たちのためにとりなしの祈りをするものとして立てられている。パウロがそうであったように、祈るものとして大切に生きていきたい。
(2017年9月24日主日礼拝 釜土達雄牧師)
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