この子の名はヨハネ(ルカによる福音書 1章57節~66節)

 バプテスマのヨハネの誕生物語である。ルカによる福音書のはじまりは、このバプテスマのヨハネの誕生予告から始まった。

 ルカ1:5~14

二人の間に子どもが生まれるという天使ガブリエルの言葉が与えられる。至聖所に入って、香を炊き、祈るのがザカリヤの務めであった。イスラエルの救いを祈っていた。救い主の到来を祈っていた。ダビデの家の復興、王権が神の名によって立てられて、栄光がふたたびイスラエルにやってくるように。その救い主の誕生を神様が約束してくださったがゆえに、その救い主を私たちにお与え下さい。全イスラエルを代表しての祈りであった。当時、復活信仰はなかった。人は死んで神のみ元に召される。地上において、自分の子孫が神の国に入れられることを「救い」と理解していた。だから、家系をとても大事にしていた。ところが、ザカリヤとエリザベトの間には子どもがなかった。それは、彼らの祖先も救いに入れられないということである。彼らの子どもを産めないということは、自分と夫だけの問題だけではなく、祖先の願いがそこで絶たれることを意味していた。つまり、自分が入ることのできない神の国の到来を、イスラエルの代表として祈るという役割を担っていたということである。これは、祭司としての苦痛であった。そのザカリヤの元に、神様は天使ガブリエルを遣わした。あなたの喜びが、全イスラエルの喜びとなる。恐れることはない、あなたの願いは聞き入れられた。イスラエルを代表して祈られなければならない、その祈りは、ザカリヤによって聞き入れられた。祈り続けていた事柄、願いが聞き入れられた。その子をヨハネと名付けなさい。主は恵み深いという意味である。ザカリヤは「主は覚えていて下さった」という意味である。ザカリヤとヨハネという名前をくっつけると、そういう意味となる。
クリスマス物語のおもしろいところである。クリスマスは、神様が私たちと共にいてくださるということの証である。その公な出来事を、一人の喜びや苦しみからの開放をワンセットにしてくださる。神様は、とてもプライベートな事柄から始めてくださっていることに、喜びを感じる。神様は、このようにクリスマスを描いてくださっている方である。よく読めば分かるように、ザカリヤの物語は二人のプライベートや苦しみや悲しみや喜びの事柄と深く関わっている。それらの事柄を我慢して、全イスラエルの救いを成そうとしているのではない。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。自分の喜びや楽しみを捨てて、神様に仕えることを望んでいるのではない。殉教者を求めているのではないのである。
ところが、神様のために仕事をしなければいけないと思う人は、それらを喜びを我慢しようとする。日本人だからか、自分が苦しまないと願い事を聞いてくれないのではないかと思っている。
「何によって知ることができるでしょうか」至聖所のところで、天使が目の前に立っていても、それが神の言葉だと信じられないのである。つまり、証拠を見せろと言ったのである。それに対して天使が言う。

ルカ1:19~20

時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。神様の言葉に対して、証拠を見せよというザカリヤに対して、天使が答える。何が証拠か。この喜ばしい伝えを伝えるために、神から遣わされた。私の言葉は、私が語ったのではなく、神の言葉である。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。だから、あなたは、口がきけなくなる。言葉が取り上げられる。祭司として、祈る言葉が取り上げられるのである。神に向かって語りかける言葉が取り上げられる。
 神に向かって語りかける言葉を取り上げられた。そして、今日の物語である。

ルカ1:57~63

 その子をヨハネと名付けなさい。1:13に、ガブリエルがザカリヤに向かって語られたメッセージである。父親は字を各板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いた。
 証拠を見せろと言ったザカリヤ。しかし、その証拠は妻のお腹が大きくなり、誰の目からも自分に子どもがあたえられたことが明らかになることであたえられた。証拠を目の当たりにした日々を、妻と共に生きることで体感していく。証拠がつきつけられた。神の力を問うたザカリヤは、神の力を目の当たりにしなければならなかった。マリアとザカリヤがきれいに対比されて描かれている。神の言葉が望み、受け入れるマリアの姿と、イスラエルの歴史についてよく知り、聖書についての知識があるザカリア。知識があり、人々から偉大な人だと言われていて、彼の祝福を待っていた、信仰的な指導者であったザカリアと何も知らない少女を対比させている。信仰とは知識ではない。聖書をいっぱい読んで、単語をたくさん知っているから信仰者ということではない。信仰のイロハは、神様は何でもおできになる、ということを単純素朴に知っているか、である。神様が私を愛してくださっているということを、単純素朴に知っていることである。信仰とは、高所大所のところからではなく、毎日の日常生活の中で出てくるものである。
 近所の人々は、みな恐れを感じた。ユダヤの山里中で噂になった。

 今日は、もうひとつ皆さんにお示ししたい。それは、クリスマスと再臨の物語との違いである。クリスマスは、多くの人々によって受け入れられている。私たちは待ち望む群れである。そのイエスさまが、ふたたび地上にいらっしゃるときを待っている。毎週、信仰告白で告白するのは、そのことを語っている。
「教会は、主キリストの体にして、・・・愛の業にはげみつつ、主のふたたび来たりたもうをまち望む」
宗教団体ではない。それらを行なって、何をしているか。主の再び来たりたもうを待ち望んでいるのである。どんなふうな来方をするかということを、たとえばルカ21章に書かれている。小黙示録である。

ルカ21:25~

 終わりのときにイエス様が来てくださるのは、天の軍勢を引き連れてきてくださる。これが、終わりのときである。私たちを招くために、地上に来てくださる。神の栄光を身に帯びてきてくださる。ところが、クリスマスのときは、これとは正反対である。ザカリヤは信じなかった。証拠を見せろと言った。罰として祈りの言葉を取り上げられる。マリアは離婚の恐怖の中に身を置く。この脆い状況の中に、弱い信仰の家族の上に、貧しいところに、イエス様を託してくださった。神様は、このような私達に、その全存在を託してくださる。栄光の主イエスキリストをこのように弱い信仰の私たちに全面的に委ねてくださる方でもある。ただ一言、この言葉によって頼まれている。「この子には、主の力が及んでいたのである。」マリアに対してはこうであった。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたをつつむ」と。神様が守ってくださることによって、この物語が支えられている。信仰は弱い。しかし、聖霊の力、神の力によって守られている。弱い私たちを守ってくださる神様がいるのだ。神様が包んでくださらなかったら、できないあなただか、そんなあなたに任せるからやってごらんなさい、と。
 自分一人ではできない。イエス様は力ある方。そのイエス様を委ねられた人たちは、私達と同じような弱い存在。しかし、神様の力がおよび、聖霊の力がつつんでくれれば、こんな素敵なクリスマス物語をあたえられた。苦しい時も悲しいときも、主が共にいてくださって、主の力、聖霊がつつんでくだされば、この地上を歩んでいける。自分でやろうとしてはいけない。主の力によって、歩んでいこう。
(2011年12月4日 釜土達雄牧師)

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