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ゴミビジネスの可能性

ボール作りという1つの答え


作り方が簡単で、洗浄などせず多少衛生的でなくても良くて、みんながよく使うものは何か。大きさや形に関わらず、大抵のゴミを利用して何かを作るとしたら何か、私の見つけた答えはボール。もっと言うと、ボールの中身は硬すぎず重すぎないものであれば基本的に何だって良いのだと気が付いた。サッカーは、ボール1つさえあればどこでもできるスポーツだということに異論はないが、そのボール1つさえ買えない人々が多いのがここの現状だ。誰かがボールを持っていると、近所の子供たちは吸い寄せられるように集まっていく。彼らはサッカーボールを買えない家庭の子なのであろう。ここではボールは夜ご飯10回分以上の値段である(日本だと安ければ1000円で買える)。道を歩けば、紙箱やペットボトルや小石など、落ちているものをボールに見立ててサッカーをしている子がたくさんいる。それを見て私はボールというアイデアにたどり着いた。

私は鞠の作り方を少し応用してサッカーボールを作った。まだ小さなものしか作れないが、いつか本物と同じサイズのものを作ろうと思う。今、ブレスレットやベルト、キーホルダーにも挑戦している。

私のホストの6歳の子が、私があげたボールを毎日のように蹴っている。まだ6歳だからかもしれないが、使い方は本当に雑だ。水溜まりに向かってボールを蹴り、雨が降っても雨ざらし。ボールを踏む子もいれば、蹴る子も投げる子も、人に向かって投げる子もいる。無法地帯みたいな時もある。小学生や中学生くらいの子がサッカーをやってる所に、2歳にも満たない足元フラフラの子が迷い込むことも日常茶飯事だ。そして、時にその子にボールが勢いよくあたり、鈍い音と共に泣き出す。そんなに大事にはならないが、痛いだろう。
でも、それで良い。ここの流儀で使ってくれて、ここの習慣で扱ってくれて、それでもなおボールが壊れずに形を維持していることが、私の目標であり、ボールのあるべき姿だろう。例の6歳の少年にあげたボールはまだ健在だ。ピンクや緑の綺麗な色は落ちてしまったが、形は健在で相変わらず酷い扱いながらもボールとして使われている。今の段階で3週間は持っているし、まだまだ大丈夫そうだ。

ブルキナファソにおけるゴミビジネスの可能性

次回からは話を戻して、草鞋作りという1つのゴールに辿り着いた日から今日に至るまでの紆余曲折を書いていこうと思う。毎日何かが起きるそういう日々を書きながら、話を進めようと思う。その前に2つ、この取り組みについて、この国の姿について軽く触れておこうと思う。
まず最初に断わっておくが、私は経済学というものを学んだことはない。そして、ビジネスについてもドが4つ付くくらいの素人だ。だから、厳しい人が見ればビジネスごっこにしか見えないと思う。ただ、ハッキリしておきたいのは私はビジネスをしたい訳ではない。今はお金も要らない。縁を持ったこの国で、無視できない問題に出会ったからこそ、それを改善する1つの方法として、この取り組みをする。そして、来年の1月には私はこの国を離れなければいけない。つまり時間はあまりない。
できたら、私がこの国を離れてからも、この活動が息を保ち、いつの日か来ると願う「ポイ捨てゴミのないブルキナファソ」に少しでも貢献してくれたらと思う。
同時に、この国に生きる、テロリストを原因として難民になっている1割ほどの人々が1つの仕事として、または趣味程度であってもこの活動で生きていけるようになるのであれば、この上ない喜びである。この国は国土の4割がテロリストの手に落ちたと言われている。田舎の方に住んでいた人々は家を失い仕事を失い、財産も何もなく路頭に迷っている。そんな人々が往々にして辿り着くのは、私の住んでいる首都「ワガドゥグ」である。ワガドゥグはまだテロリストが侵入していないからだ。そこに親戚がいればまだしも、宛もなく来る人が大勢いる。そして、その人たちは路上で寝て木陰か信号の標識の陰で一日を過ごす。大抵が母親と幼い子供である。信号の傍にいる人々は昼間になって交通量が増えると、信号で止まるバイクや車まで近づいていき物乞いをする(何故かいつも子供が来る)。白人はお金を持っているという先入観に従い、私は特にターゲットになる。しかし、彼女たちは信号が青になると走り出すバイクに轢かれそうになりながら、ほとんど、いや全くお金は貰えていないだろう。何か売ればまだしも何も売らずに物乞いだけするのは限界があるように見える。
小さい規模でいえば、将来を担う子供たちが不出来であってもサッカーボールを持ち、自分だけのボールを真剣な眼差しと時折の笑顔で蹴っているのを見るのが、ちょっとした夢だ。難民でなくても、家が貧しければ同じことになる。つまり物乞いをする。私たちが朝ごはんを喫茶店で食べていると10歳ほどの少年が物乞いに来る。水は25フラン(日本円だと5円ほど)である。それがなくて物乞いにくる。彼らはサッカーに参加する余裕もない。物乞いをして家の手伝いをして、やることが山ほどあるのだろう。イスラム教の少年たちはトマト缶を腰にかけて店の中の人を順番に訪ねる。彼らは組織だっているらしく、背後には大人がいるという。真相は分からないが、学校など行かずに毎日毎日歩き回っている。この話は詳細がわからないが、少なくともただただ物乞いに来る前述の少年たちが、サッカーボールを売りながら時には自分用に作って、道端で蹴っているのを見るのが、今の私の夢だ。


トマト缶をもって物乞いをする少年

次回、草鞋作りを思いついた日のことから、より具体的に書き始めよう。

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