私の10代の読書

は、果たして読書だったんだろうか。

郊外の山に囲まれた実家から、地方都市の街中ど真ん中への、自転車で片道40分かかる通学路。その途中にある地元の大型書店で、市営の図書館で、私は度々本を漁った。

好きな作家が特にいるわけではなかったけれど、江國香織はなんとなく好きだった。
母が持っていた「きらきらひかる」の文庫本を、面白かったと言ったら、母はそれを私にくれた。
健気な少女だった私は、母と同じ本を好きになれたことが嬉しかったのだ。今思えば、今も私の本棚にあるあの「きらきらひかる」は、子が親を慕う気持ちの一片だ。

とはいえ、特定の好きな作家に限定せず、気になる本は片っ端から読んだ。
読んで、読んで、どこかにないか、ここにもないか。本を開いて、ここにあるかもしれない。本を閉じて、ここにもなかった。
本の中に、私は何かを探していた。
探し物のために、私は本屋や図書館の書棚を何度も往復した。

私の気持ちを書きあわらしてくれる言葉が、とこかにないだろうかと、探していた。

ものを知り、身体も精神も成長するおかげでどんどん世の中というものに触れ始めるようになる10代、私の胸中にはいつも綿埃の塊のような、不愉快で曖昧なぼわぼわとしたものが転がっていた。
ぼわぼわは、私が思ったり感じたりした事らしいのだが、ぼわぼわを呼ぶための適切な名前もなければ定義もない。だから、ぼわぼわは説明はおろか、正体すら不明だ。
正体がわからない上に、ぼわぼわは、時折私の中にもわっと姿を現わしては、私の心臓から喉のあたりをごろごろ動き回って、なんともいえない不快感を私に与える。ぼわぼわを胸につかえさせたままでいると、そのうち両腕のあたりに、ぞっとするような違和感が、何かが腕に触れているわけじゃないのに触れてくるようないやな感触が、這ってくる。

気持ち悪い。どうかこのぼわぼわを、なんとかしてくれ。まず、このぼわぼわが何者かをおしえてくれ。

わかることは、ぼわぼわが自分の身体の中だけに感じられるもので、自分の精神から発した何かであるということ。

優れた文章や物語の中になら、もしかしたらこのぼわぼわを描いたものがあるかもしれない。
出会ったら、きっとぴんとくるはずだ。

こうして私は、自分の言語化できない気持ちや感情を探すために、読書を重ねたのである。

しかし、10代の頃読んだ本に、その正体はどこにも無かった。
さらに20年経って、40代が視野に入ってくるようになった今でも、奴はどこにも見つからなさそうである。
この頃ようやく分かったのは、あの10代の頃の読書欲の正体が、「わたしの気持ちを、誰か教えて」という、不器用で他力本願な頼りない少女の願いだったことぐらいで。

自分の感情に当てはまる言葉を探し当てることばかりに必死で、本をまるで自身を映し出す魔法の鏡だと期待してページをめくり続けた、10代の私。本の中に整えられた、言葉の選び取り方や編みかたの美しさや巧みさ、物語の運びのダイナミズムをゆっくり味わえる読者ができるようになるのに、彼女はそれから何十年も要した。

しかも結局、いまだに彼女のぼわぼわの正体も分かっていない。ぼわぼわを抱えたまま大人だなったら、ぼわぼわどころでは済まないような、つらいこと、新しいこと、楽しいことがたくさん起きてしまって、自分の都度都度の感情を捉えるのが、もっと複雑で困難になってしまった。

ただ、複雑で困難な自分の感情は、ぼわぼわの綿埃の形を取ることはなくなった。成長し経験と学びを重ねるにつれ、チリだらけで時にチリの塊が胸元を圧迫する様子だった私の精神は、平らな土のようにならされていった。ならされた土の中から、自分の感情というものが、じわじわ染み出すようになった。
染み出したものにゆっくり向き合うために、本を読むことで得た、知識や世界の現し方や人の姿、そういうものを頼りにするようになった。もう私は、本を魔法の鏡として手にしない。精神の地平にふと降りてくる、不意の雨や風や花のように愛している。

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