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2024.6.13 TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション

モダンとは何か。
モダンの言葉で語るものごとのジャンルがあまりに多岐すぎて、モダン=こう、と定義できる単純な言葉ではない。
私が何となく思うのは、「人間が人間らしい精神を追い求める活動が、活発した時代」なのだろうかと。

モダンアート•コレクションと題された企画展示室の中に並ぶ作品たちを後にして、皇居の緑と道路標識の青の妙な調和の中を竹橋の駅に向かって歩きながら、何となく、思った。

東京国立近代美術館にて。2024.6.13

古い、古い、モダン以前の世界では、芸術とは、たとえばヨーロッパ文化圏においては、神様や信仰、王族貴族や権力者のためのものであった。
しかし、芸術は人間皆のためのものに変化したのが、モダンアートの生まれた時代以後だ。
個人の姿や生活を描いたり、社会を描いたり、抽象画のような、人や風景をありのままに描く以外の表現方法を追求したり。
人間と、人間が生きる世界のこと、人間の頭の中のこと、あの手この手で、各人が、それぞれのアイデアで、めいっぱい描き尽くそうとした。
モダンアートとは、人と人をとりまくものを、自分なりのやり方で描いてやろうという試みの集まりだ。
そして、試行錯誤や才能の成果と認められたものが、世界中の美術館のコレクションとして残されている。
世界中に散らばり眠るアートな企みの成功者たちの選りすぐりを、パリ•大阪•東京の三都から集めてくれたのが、今回観た「TRIO」展だ。

また、アジアの工芸品のように、美しく巧みな物を沢山造っても、それをわざわざ芸術というカテゴリに祀らず、生活の中のいち道具にすぎないという認識で、後世になって芸術と呼ばれるようになった物も多々ある。
というか、なにが芸術か、芸術と呼ぶものの対象を広げようとあれこれ考えたのも、きっとモダンな試みだ。
生活の道具たる工芸品だってアート。産業革命以後の新発明の、機械だってアート。写真だってアート。がらくただってアート。ビデオに記録した映像だってアート。
豪奢な額縁の中の、油の臭いに包まれた名画だけを観るために、わたしたちの眼や美的感覚があるわけではないのだ。
なぜ、現代の私たちは、「美しいもの」「かわいいもの」「かっこいいもの」といった、ささやかな審美眼によって、自分の身の回りのものをジャッジできるのか。
それはもしかしたら、モダンアートの挑戦者たちが、私たちにとっての「美」の概念を、拡張してくれたからかもしれない。

それにしても、大阪(大阪在住ではないが、大阪に通勤できる場所に住んでいるため、ホームグラウンドとしてはこちら)の美術館できっと観たことのあろう絵が、東京で三都の絵として飾られると、途端に新しく見えてくるのは、さて東京マジックか?
いいや、これぞキュレーターの方々の手腕なのか。観たことのある作品でも、新しい価値を発見できるような構成に仕上げている。
そういえば昔、関西人の友人複数と東京でミュシャ展を観た時(友人の結婚式で、みんなで上京していた)、大半の絵が堺のミュシャ美術館所蔵あると知った途端「なんや堺にあるんか」と、わざわざ東京に来たのに…という気持ちになったことを思い出す。
でも、東京の館というだけで、他地方の民は、なんだかすごいものが来ているぞという気持ちにさせられるのだ。
というのは余談で。

しかしながら、モダンアートとは、人間を、作家が生きている今を描ききろうと挑んだ軌跡であるならば。
モダン以降の我々は、誰のために、何をらどういうふうに描けばいいのだろう。

モダンアートの人々は、抽象画、キュビズム、ポップアート、あらゆるジャンルのアートの創作方法を開拓した。
現代のアーティストたちも、だいたいモダンアートが開拓し、定着したカテゴリの中にいる。モダン以降に登場した新しいアートなら、ビデオアートといったメディアアートか(美術史に疎く申し訳ありません)、従来なら漫画の絵と呼ばれたようなイラストレーションをさらに発達させた例か。

現代だって、この現代に相応しいアートを作ろうと模索している。でも、新しいことはなかなか難しい。なんせ、いろんなモダンの先人が、いろんなことをやり尽くした後なのだ。
新しいことをやり尽くした。やり尽くした結果、今度は、多様性やコンプライアンス意識の中で、やり過ぎないようにすることへの気遣いが必要になった。

さらには、やれる人も増えた。アクリル絵の具のような、油彩と違ってすぐ乾く画期的な画材もあるし、ましてやデジタルアートなんて、タブレットひとつで芸術作品を作る人も出ている、私の知人の作家仲間にはiPhoneで描いている人もいる。アートを売り買いする市場も広がっていて、アートは際限なく日常に入り込む。
(それでもやっぱり、作家が魂込めて描いた物を評価いただける人は限られているが…)

全てが出尽くして、表現のための技術も場所も発達した。
こんな状況で、果たして今の時代の人間は、何をを描けばいいのだろう。

誰のために、なにを描くことが、2024年前後の人間たちのためのアートになるんだろう。

モダンアートの挑戦たちをふんだんに浴びた後、「いま」について、改めて意識をさせられる展示であった。

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