多忙に耐えない

期間限定でありながら、久々にフルタイムで働く。
限られた人の生活時間を、労働が大半を占めるようになると、家事だの労働以外の活動だの、他のタスクのための時間が、仕事にどんどん圧迫されていく。
体力気力、特に気力の面で頼りないキャパシティしか持たない私の頭は、やることでぎゅうぎゅう詰めの日々にあっぷあっぷしていく。

ぎゅうぎゅう詰めの毎日は、わたしというものを撹拌していく。
わたしが誰であるか、なにを幸せと感じ、なにを不愉快に思い、なににどう心を動かされ、なにを目指して自分の人生の舵をとっているのか、といった、わたしの在り方というものを混濁させる。

わたしが私であるための精神のはたらきに、仕事や、仕事以外の活動や、その他あらゆる雑事をこなすための頭の回転と、それらをどうにか限られた時間でこなさねばというプレッシャーが大量になだれこみ、まぜこぜにされる。

すると頭はいつもぼんやりしていて、ぼんやりといったって、目の前のやることは普通にこなすことはできる。
しかし、わたしという人間の魂みたいなものは、撹拌された日々ごとどこかに沈んで、清明でない。

到底絵なんて描けやしない。
絵筆を取らせるほどの感激がない。

折角都会で働くことになったのに、大好きな都市の姿をじっくり観察する余裕もない。
都市はただの流れる景色になってしまって、あまりにも他のことに焦点を合わせないといけないことが多すぎて。

幸い、フルタイムの仕事の契約が短期であったこと、次の仕事も決まっていないことから、契約終了の日から、しばし休みが取れることになった。
私は安堵している。
このままわたしというものが、日々に掻き回されてぐちゃぐちゃになってしまう懸念から解放されるからだ。

多忙に耐えない、要領の悪いつくりの人間である、つくづく。
忘れがちだけれど、そういえば私は持病の薬を飲みながら、生活のための体力気力を維持している人間でもあった。
けれども、要領の悪さを工夫である程度カバーすることはできても、要領の悪い頭の作り自体を変えることはきっと諦めた方がいい。後者のための努力はボリュームが大きすぎて、きっとまた新たにわたしの頭をごちゃまぜにする要因になる。

どうにか、この度、フルタイム勤務という現代社会において一般的な勤労スタイルにすら忙殺されかかった情けないわたしを、情けないなりに守れるような生活のやり方を模索したい。
そうやって次の仕事の求人をぼちぼち見ている。

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