家族はクビにならないけれど

「もし、従業員なら、やる気のない人間はクビになる」
「従業員は、いつも社長に『死ね』『辞めてまえ』って怒鳴られながら頑張っている。甘い。世の中に出たらもっと辛いことがあるのに、子供のあなたは甘い」

中学生か高校生の頃だったか、学校に行きたくない、気分がすぐれないし、身体もだるいと訴える私に、両親はそう言った。
実家は自営業で、肉体労働かつ危険な作業を伴う仕事だった。
だから言葉遣いが荒々しいのはある種の業界の文化だ。
従業員への監督指導がおろそかになれば、仕事の仕上がりを左右するだけでなく、重大な怪我や事故が起きるおそれもある。
そのような背景の仕事をしながら、親は従業員の安全や生活、家族の生活を担っていた。

さて、冒頭のかれらの言葉の意図は、しつけと叱咤激励だ。
社会人になると、ささいな弱音や不調で仕事を休むことは許されない。
「死ね」「辞めてまえ」といった強い言葉を投げつけてくる人間もいる。
だから、子供のうちに、弱音を乗り越える力を身につけなさい、と。

親はさらに言った。
「あなたは子供なのだから、従業員さんのように、死ねだのなんだの言われなくて済んでいる。それだけでも、ましよ」

つまり、従業員ではなく子という立場ゆえに、あなたは優しく守られているのだと。
子へかける言葉と、従業員にかける言葉はきちんと選んでいる、それぐらいの分別を持った愛情が、きちんと我が家にはあるのだと。 

しかし、当時10代の私に、かれらのいう叱咤激励に込めた愛情をきちんと受け取る力はなかった。
私は、私がもし従業員なら死ねと罵倒されてクビになるような人間なのに、子だからという理由で、仕方なく情けをかけられ、免罪されている。
けれども、学校に行きたくない気持ちは消えない。人との関わり合いのささいな瞬間、ひとりでいるときのふとした瞬間、そういうときに現れる強い不安への圧倒は、解消しない。
「それは大人の世界では通用しない、社会では通用しない弱さだから、抑えなさい、耐えなさい」
いくら自分に言い聞かせたところで、私はちっとも強くなってくれない、少なくとも親の望むレベルには。

当時の私を支えていたのは、学校帰りに心療内科にもらいにいっていた抗不安薬と、たまに優しい養護教諭のいる保健室で、何もせずひとりで寝かせてもらえる時間だった。

さて、こんなふうに10代の頃のことを思い出したのは、大人に必要な強さをもう身につけるべきであったのか、36になっていまだに答えが出ないでいるからだ。

あれから大人になった私は、親の言うとおりに社会の厳しさに直面し、私なりに逃げずに立ち向かってきたのだが、心身は弱る一方だった。

30を過ぎた頃に、とうとう限界を迎えて働けなくなった。
医師からは、無理をしなくて生きられるように、環境側を調整するようアドバイスを受けた。
環境を調整しろとは、先の親の言葉と照らし合わせて言うなら、「死ねと怒鳴られないように自分が頑張る」のではなく、「死ねと怒鳴る人がいない優しい場所で生きろ」ということである。

こんな私は、我が実家の従業員ならば、クビである。
しかし、家族はクビにならない。
なぜなら、家族関係には血縁に基づく愛情や責任があるからだ。

「従業員ならクビになるのに」と言った両親たちに、愛と責任はあっただろうか。

理想どおりに成長しないからといって、子を家族から解雇して捨てることはできないのは、きっと愛情ゆえだろう。
また、子が育つために尽くしてきた手間が、無駄だったことを突きつけられるのはあまりに悲しい。
子が理想通りでないからと言って捨てるのは、世間的には家庭の責任を放棄したとみなされ、具合が悪い。
おおよそ、こんな事情か。

ああ、これも両親たちにとっては、かれらなりの家族愛であり、責任を背負おうとした真っ当な態度だったのだ。
そう納得していたのに、この話をすると、今の私の家族である夫や、定期的に通院している心理カウンセラーの先生の顔が曇る。

会社と家族は、そもそも同じ土俵で語るものではない。
大人の社会での苦労と、子供の苦しみを天秤にかけてどうにかなるものではない。
俺の実家だって自営業だけど、うちの親ならそんなことは言わない。

さあ、果たして「死ねと罵倒されながらも、クビにならないよう頑張るのが大人のルールだ」という親からの励ましは、有害であったのだろうか。
そこに込められた、不器用な愛情も私には読み取れる。
一方で、この励ましに従えず弱るばかりの大人の自分の不甲斐なさや、家族という情けでやむなく許されたような気持ちからくる罪悪感も、私の中で未だ消えない。

毒親といった言葉がわかりやすいように、親の暴力性や有害性を問題視する言葉が、昨今溢れている。
けれども、親をただちに毒だ害だと言い切れないケースだって、この世には溢れているのではなかろうか。
親と子であれ、違う人間同士である以上、双方の意図が思った通りに伝わり、期待通りに受け止められることばかりではない。
ゆえに、毒になるか愛になるか、すれすれのところを揺れ動くコミュニケーションも起きてしまう。
私が、親の会社の従業員に準えて弱さを咎められた時のように。

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