いのちだいじに、わかりますか

「人は誰しも、自分の身体や感情や意見を、大事にされていいんです」

心理カウンセリングの途上で心理士の先生に言われたが、齢36にして、未だ実感が沸かない。

ただ、人間として何かが欠落した、精神がかたわ気味な私なんぞを配偶者にした夫が、私に対して何度も何度も「自分をないがしろにしないでくれ、傷つけないでくれ」と泣いたり怒ったりするからに、どうやら私は私自身のことを大事にしていないと見えるようだ。
自分を大事にしていない自覚はないが、善良で真摯に私に向き合う夫を、泣いて怒らせるような真似はしてはならないと、強く思う。よって、夫が言うところの、自分を大事にしない行為は控えるようになった。

自分の無知を咎められたとき「学校で習ってません」を言い訳にするのは、大人でも子供でも許されない。ただ、子供が言うぶんには、子供の無邪気な戯言だがさて何を申すかと、ちょいと大人に叱られる程度で済むが。

しかし、「自分の身体や感情や意見の大切さ」なんて、そこそこ生きてきた36年のうち、どこで教わったろう。と、考えた時、ふと中学生の頃に毎年行われていた、あるセレモニーのことを思い出した。

私の通っていた中学で、年に一度行われていた、学校独自のセレモニーがあった。学校の中庭に建てられた石碑を生徒全員が囲み、なんの文言かは覚えていないが、思いやりだの、命を大事にするだの、そういう道徳的な宣言を唱和する会だったと覚えている。

中庭に石碑が建立された理由も、そもそもセレモ二ーが開催された経緯も知らせず、「ただ、定例の学校行事だから」という理由で唱和させられる、道徳宣言。

なお、生徒たちの間では、「あの石碑は、学校内のいじめで自殺した生徒がきっかけで出来て、あのセレモニーは、二度といじめをしないという啓発のためだ」という噂が囁かれていた。

もし、石碑やセレモニーの真意が子供たちの噂どおりだったとしても。
セレモニーの意義を、中身を知らされないままに、ただ「思いやり」「正義感」だの簡潔に正しい言葉を声に出してみたところで、一体何が響くというのか。
物語もないのに、物語の結末と後日談だけが、虚しい単語の姿になるまで削られて、濾されて、残っただけ。

振り返れば、私が子供時代に大人から説かれた命を大事にしろというメッセージは、なにひとつ響かない、出涸らしのものばかりだった。

いのちを大事にしなさい。
ともだちを大事にしなさい。
親を大事にしなさい。

大人たちは、学校の教室でのお説教、児童向けの昇歌、劇や物語、あらゆる形で子供たちに言い聞かせてきたが。

「あなた」を大事にしなさい、とは、言われたことがない。

一般論としての、だれのものでもない、社会に生きる人々みなの共通認識としての生命を、尊べとは、他人を尊べとは、確かに納得させられてきたし、してきたが。

それは、いわばだれの身体にも精神にも属さない、世の中のみんながなんとなく、ふんわり思い描く、概念としての生命であって、「わたし」の生命だとは思えなかった。

「わたし」ごとに感じられない命の大切さは、まるで中庭の石碑のまわりで繰り返された正しい言葉たちのように虚しく、それでも運良く生命の危機に追いやられることはなく、他人を致命的に傷つけることはしないまま、大人にはなれた。
他者の生命を重んじるよう振る舞うと同時に、自分の生命を、身体を、気持ちを、軽んじながら。

だってそんなん、習ってません。

でも、大人だから、習ってなくて困ることがあるなば、自力で得なおすしかない。
自分を大事にするすべを教わらなかったのは、誰のせいでもないが、自分を大事にしないがばかりに降りかかる不幸の責任はおよそ自分にあるのだ。


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