歴史外交方面の話 明治維新の一方の主役は徳川慶喜

勝海舟は自己PRの達人

昔、赤坂の氷川神社の横の勝海舟邸跡の前をよく通った。アメリカにはセルフ・パブリシストという単語がある。日本は自己PRに優れた人間が少ないが勝は数少ない一人だった。氷川清話は面白がってよくよく読んだ。
しかし明治維新を少し真剣に考えるようになると、やはり福沢諭吉のほうがいろいろな意味で正しかったと思うようになった。勝は越後出身で高利貸で大富豪になった米山検校。江戸生まれの御家人の出だが、地縁からいうとミニ角栄みたいな人物だったかと思う。座談の上手さは父親できっすいの江戸っ子、勝小吉ゆずりだったかもしれない。

無血開城のシナリオを考えたのは?

明治維新のような徹底的変革で旧政権の担当家が無傷で残り、現代まで存続した例は他にない。フランスのブルボン家がやや近いが、フランス革命で当主夫妻他多数が処刑されている。勝の頭には日本はなく、江戸幕府もあまりなく、徳川家があったようだ。その点では大成功を収めた。

徳川家存続というテーマを中心に考えれば江戸城無血開城とその前後の行動も理解しやすくなる。鳥羽伏見以前、勝は「大名連合」で勝てるとふんでいたが、徳川慶喜は鳥羽伏見の敗戦で「時勢の流れからして薩長に勝てない。幕府側は烏合の衆で局地的に勝てば惨害を広げるだけ」と判断したと思う。慶喜の大阪脱出はさんざんな悪評だが、明治維新を円滑に成功させた決定的決断だと思う。
 ともあれ浜御殿で慶喜と会ったときに、勝は大名連合方式はダメだと悟った。座談では自分の手柄を持ち上げて慶喜を罵っているが、徳川家は恭順し、日本統治から退くというビジョンは慶喜だった。

 政権引き渡しの全権を委任される

慶喜は徳川家でビジョンを実行できるのは勝だと認めて全権を委任する。徳川家を残すにはまず江戸から抗戦派を追い払う必要がある。新選組は寛永寺で謹慎中の勝を護衛したためきわめて危険な状態だった。新選組の組織としての本質は反テロリスト特殊部隊で近藤勇、土方歳三には秩序維持以外にさほど大局観がなかった。
 勝は徳川家の御用金を支出、甲陽鎮撫隊として近藤らを甲府に追い払った。巷説では勝の判断とされているが慶喜の意を対したものと考えるべきだろう。
 しかし官軍の抗戦派に肩透かしを食わせるのはそう簡単にいかず、史劇のかっこうの舞台になる。勝は薩長側主要人物で新国家のビジョンがなく(あるいは幼稚で)心情操作で騙せるのは西郷隆盛だけと判断した。細部を省けばこれが成功した。
 好戦派といっても江戸城を攻め切れる自信はなかった。正統性を示すため革命戦争に勝つ必要があったが、城攻めの常套手段はまず城下町を焼き払い、包囲して糧道を断ちつところから始めねばならない。官軍は兵力、資金ともにとうてい足りなかった。江戸で大惨事を引き起こせば、新国家建設の大きな障害になる。西郷が責任を取るなら自分たちが妥協したということにせずにすむ。
 

慶喜隠棲、勝は残念賞の伯爵

これがマクロにみたときの無血開城が成功した理由だろう。以後慶喜は静岡に隠棲して政治の表舞台から消える。勝の行動の主動因は慶喜のビジョンだったから慶喜がいなくなれば勝の役割も消える。明治政府は勝をはれものに触るように慎重に棚上げし、残念賞かわりに伯爵にした。内心はふんまんやるかたないものがあったはずだが、慶喜が静岡で一切沈黙している以上、じままに動くことはできなかったのだろう。氷川の屋敷に取り巻きを呼んで気炎を上げ、世間に存在を示すことになった。

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