鬱のただなかにおります(近況報告)


 ハローこんにちは、なまむぎなまこです
 私は双極性障害(昔で言う躁鬱病)を患っているので、要するにひどい鬱と躁を繰り返す完治しない病人なわけで、ただいまはひどい鬱の中にいてなんだか頭は働かないし心は重いしで最悪なので、頭の中のごちゃつく思いをなんの推敲もせずに吐き出しておこうと思った次第です ですのでいつもよりひどい乱文ですし、何の脈絡もない話を挟んではくだを巻くつもりでいます よろしくお願いします

 鬱です ひどい鬱の中にいます
 体を動かしたいのにベッドから起き上がるのさえ億劫で、スマホを叩く指先すらも重いような気がします
 何か面白い動画でもみて気分転換しよう、と思うのですが、つるつると目は滑るしなんだか5分も経つと「何もしていないのにこんなことしていていいのか」と焦るような気持ちになって集中していられないのです 買い物、掃除、家事などこなさなければいけないことが山積みで、その山のように積もっている現状を思うと情けなくてしんどくて面倒くさくて起き上がる気力がますます萎えていきます
 深夜のテレビに映るときの顔でこのところの日々を過ごしています
 ぼーっとして眠たいような眠れないような、何にも考えていないような、何かを考えすぎているような、心の置き場所が定まらない不安定で無気力で怠惰な生活をしています
 躁状態のときはなんでもできるので、鬱状態における何にもできない状態というのは私を何度となく打ちのめします
 認知症や老いを感じる時に最も苦しいことは「できていたことができなくなる」という状態におかれることだと聞いたことがありますが、なんとなくわかる気がします
 躁鬱病の私は、先週できていたことが今週まったくできなくなるショックを常に受け続けます
 躁鬱病患者の自殺率はある論文によると単極性鬱病患者よりも高いそうですが、鬱病がゆっくりと追い詰められていく病気であるとすれば、躁鬱病は極限の楽しみと極限のつらさを交互に与えられて、死にたい気持ちをその落差によって瞬間的に一気に高められてしまう病気だと思っています
 だからといってべつに今の私が死を企図しているわけではないのでご安心ください
 生きていきたいです、元気になりたいです やりたいことも見たいものも読みたい本もたくさんある世界なのです 
 いまはエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本が読みたいのですが、図書館まで借りに出向く気力がないです 哲学は前向きであるべきだと個人的に思います 反出生主義や厭世主義は反抗期の子供の恨み言に似ていて嫌いです 考え抜いた果てに生きていけなくなるような思い込みにさらされる分野には興味がないです そういうものは諧謔を弄していていっそ害悪だと思うときもあります でもいつかは清濁併せ呑むようにいろんな考え方に「それもいいね」と示していける大人になりたいです 或いはそういった後ろ向きなものと向き合っていつかは超克したいと思います 元気な時にね

 生きていきたいです
 生きていきたいのに私の体は時々思う通りに動きません
 身体に不自由があるわけではありません
 身体を動かす意志の力がときどき混迷に陥るのです そういうとき、誰かの支えが欲しい気持ちと 誰にもそんな自分を見られたくない気持ちの板挟みになります
 鬱状態になると、判断力というか、思考力のすべてが低下する感覚があります 
 何を考えればいいのか元気な時にはわかることの何もかもがうまく掴めなくなり、何かを意思で決定することがとても難しいです ですからきっとこの文章もひどく乱雑だと思います
 たとえば私は今日、出かけるつもりでいました 財布の中のお金が少なくなっているので銀行に行こうと思っていたのです
 なのにそれもどこかぼんやりと靄に包まれていて、ぼーっとしている間に時間が過ぎて、「何時に出る」「どこの銀行に行く」とか具体的なところに思考が移っていかないのです そのため、いつまでもベッドの上で「行かなきゃ」と思いながらぼんやりしていて、もう夕方です
 浮かぶ思いつきや思考の全部が途切れながら漂っている感じです
 現実感がなく、実行するまでの道順が思いつかないので行動に移せないのです
 脳の中にある、その行動の実行に至るまでの信号がみんな消えてしまって、ゴールはおぼろげにわかるのにスタートがどこなのかわからなくなっているような気がします

 そういうとき、自己嫌悪と焦燥が湧いてきて、苦しくなります
 やらなきゃやらなきゃやらなきゃ、できないやりたくないできない、なんでできないんだ、と、呆れ果てている自分の声が遠くから聞こえます
 部屋は汚いし家事は溜まっているし、やらなきゃいけないことに追い詰められて、頑張れないから頑張りたくないから死んでしまう人の気持ちがわかるような気がします
 死ぬ気はありませんが、死んでしまいたい人と近いところにいる気はします

 罪悪感なく寄りかかれるものが欲しいです 無償では罪悪感がありますが、有償だと貧乏なのでためらいます 自分の状態がわかりません なにもかも投げ出して、海辺で日光浴がしたいです
 波の音を聞きながら暖かい日を浴びて、気が済むまで寝ていたいです
 でもそこに至るまでの気力が萎えていて、現実的でないのが困ります

 繭があったらいいな、と思うことがあります
 死にたくなった時にその繭の中に入ると外部からの刺激は一切届かず、飽きるまで時間を止めて何もかも放棄して眠っていられるような繭があったら、と思う時があります
 その繭をきっとどこかに見つけるべきだとは、あるいは心の中に持つべきだとはなんとなくわかるのですが、たぶん私はそんな夢のような装置を他人に許されたいのです
 卑怯さを責められず、弱さを糾弾されず、平等に認められた装置として、誰に恥じることもなくそんな場所に行けたら、と思います
 自分が弱いことは、弱いことを認めることは、誰よりも自分のことを傷つけますね
 傷つかずに弱さを見せる場所として、SNSはあまりに不適当ですね
 恥のあまりに弱くないものを攻撃する人々を見てきました
 だから今はSNSを見ないようにしています
 よくないものに引っ張られてしまったとき、留めてくれるほど確かなものが今の私にはないから
 お手軽で簡単で過激な意見を真実と見誤ることが、SNS上ではあまりに容易いのです 確固たる自分がない人は、インターネット上にきらきらと光る普遍の真実が落ちていると思い込みます
 利己主義者はおしなべて現実と理想のギャップに苦しみます、現実における挫折や失敗を受け入れる力がないものは、簡単に手に入るものばかりを取ろうとして惑わされやすいです
 挫折や失敗を受け入れることは、恥ずかしくて未熟な自分を見つめることです
 それは本当に苦しいですが、しかし、背を向けなければいつのまにか乗り越えられることです
 すべてのストーリーがそうであるように、苦しんで傷ついて、乗り越えた先にしか価値のあるものは手に入りません
 でも苦しみの渦中にいるとき、頭の中は逃げることばかりで、苦しみを喜ぶ気持ちにまではなかなかなれません
 でも、苦しみを正面から見つめたときにしか、苦しみを倒す方法はわからないものですね
 にげる ばかりでは経験値が貯まらないのは、ゲームも人生も同じだなあとこの頃思います

 人生が何度繰り返されてもまったく同じようにあれ、と言ってのけるニーチェのようになりたいですが、落ち着いている時にしか思えません
 ときどきは思えます
 
 お付き合いいただきありがとうございます
 苦しみの多い人生をときどきは喜んで生きようと思います
 治らない病気があっても 恥ずかしいほど未熟でも そんな自分から逃げなければ 少しずつ強くなれる気がしています
 生きたいです
 銀行にすら行けなかった日なのに
 いつも心の底のどこかに小さく灯る火のような希望があります
 この世界には価値があるということが、おそらく私の勇気にもなっています
 
 お読みいただきありがとうございました
 また元気になってお会いできることを自らのために祈ります

20240212
なまむぎなまこ 拝

 

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