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日晷

日晷(にっき)とは、「ひかげ」の意を持つ。らしい。晷(キ/ひかげ)とは、「ひかげ。日時計」の意を持つ。らしい。

いつも通りたまたま見つけた言葉から妄想して物語の冒頭を書き出し、プロットをひとつ積み上げようかと思いましたが、今日のところは帰路で書き切れる単なる日記を書くこととします。

最近はもっぱら思考停止が盛んです。企画はいくつか思い付きましたが、それらは新しい物語のためのプロットではなく、文字通りの企画であり、僕にとって重要で長く付き合ってきた妄想が、自分の脳内妄想に興奮した覚えが、遥か数ヶ月前を最後に停止しています。思考停止の際、僕は決まって、椅子の背もたれを倒し、机に足を乗せ、無為を過ごしながら寝落ちします。これは長くとも二時間ほどに収まるのですが、昨日は四時間ほど寝ておりました。「これはあまりに面白くない」と久々に感じ、気温に見合わない低気圧に頭を締め付けられ、業務をこなし、自宅に、一日の終わりに、向かっている訳です。

話は飛びますが、最近は感謝も少なくなってしまいました。僕にとっての感謝とは、日々の生活の中で必然的に生まれる感謝ではなく、対象に対して僕が一方的に心の中で感じる感謝です。祈りにも近い。かつて、朝焼けに感謝し、愛すべき人々に感謝していた僕ですが、あの感覚はかなり希薄になって参りました。常態化しても劣化を感じなかったのが僕にとっての感謝なので、単なる機会損失か、意識喪失のどちらかです。意識的で作為的な感謝に対して忌避感を覚えることはありません。たとえ作為的でも、その感謝は豊かさに他ならないからです。

心が豊かでない、ということは全くないのが救いですが、本当に欲を言ってしまえば、僕の変態性は本環境において衰弱の一途を辿るばかりである、という考えが浮かんできます。思考停止を死とする方針は未だ消えていませんが、思考停止している自分に対して嫌悪を覚えられていないのは寂しいところです。僕の愛した僕の変態性を蘇生出来るのは、僕しかいません。他人に自分を任せていた経験がある以上、愛すべき他人から得られる助けは、その他人から生まれた自分に対してのみ効果があるのです。自炊を楽しみ、好きな店を見つけて、金遣いの荒さをエピソードにして、愛すべき日々を過ごす。思考停止は、自分を守るための一般的な休養と何ら変わりませんが、体力を使うはずの創作活動が少しの苦しみと圧倒的な安らぎを僕自身に与えてくれると僕は知っているのです。

これは決意でもなく、再認識でもなく、日々思っていたことを並べただけです。これは賛否の中で否が多いことと思いますが、僕は物事を為す上で決意が最も不必要なものだと信じています。僕にとっては特に顕著であります。

僕は今、陽に当たる毎日を過ごしています。健全で、当たり障りのない日々を。僕はきっと、日陰に焦がれている。僕が隠しきれない興奮を感じたのは、そのどれもが、底の見えない日陰でした。

程よい風が吹く休日。開放型のイヤホンで音楽を聴くが、ビュウビュウと通り過ぎる車の音で聴こえづらいのも心地いい。まさしくバックグラウンドだ。音楽を変えた時、横から涼しい風が吹く。何度も歩いているのに、知らない細道があった。細道に差す日陰がとても暗く、突き当たりにも同じ陰が差している。細道を進むと車の音は遠ざかり、音楽がうるさくなる頃に音量をひとつ下げる。アパートに挟まれた細道は、住みたい街ランキング常連の街には似つかわしくないほどに複雑に折れ曲がり、遂には袋小路になっている。音量は下から二番目の小ささ。曲を変え、目線を上げる。三階以上のアパートに挟まれており、ベランダに吊るされる洗濯物が風を羨むような顔でこちらを見ている。僕も風に当てられていないというのに。道を塞ぐようにそびえる建物がアパートでないことは何となく分かるが、結局よく分からないので、近くに捨てられている子ども用の椅子に腰掛け、正面の建物を眺める。ぷー。ぷー。たのしい音だ。遊べるものがあると、つい遊んでしまう。正面の建物は木製の裏口がひとつ、その上に二階と三階の小窓が二つずつ。裏口の脇には、ザが付きそうな青くて円柱の大きな蓋付きゴミ箱が置かれている。ゴミのことを考えていたからか、右側のアパート三階のベランダにカラスが一羽留まった。こちらを見て、首を傾げてきやがったので、お返しに倍の角度で首を傾げてみせる。負けを認めたのか、今にも謝罪の言葉を述べてみせそうな程に、嘴をパクパク動かしてみせた。そこは弱々しく鳴けよ。空気の読めないカラスがもう一度嘴を動かしてみせると、「ぷーぷーぷーぷー、うるせえなあ」と喋ってみせた。喋れんなら最初から喋れよ、と驚きのあまり的外れな突っ込みを入れたところ、「んだテメエ、その態度」とキレられた。嘴は動いていないのに。カラスは今度こそ僕を煽るように首を傾げ、飛び去った。

ベタな漫画のようなクダリを終え、満足気になった僕は裏口から出てきた人間に向き直る。あんまりタイミングが良かったもんで......、と言い放つタイミングを失って、恋でも始まんのかと言ってしまいそうなほど見つめ合ってしまった。「恋でも始まんのか、オイ」とその人は言った。よく分からないけれど多分好きになった。ありがとうございます、と満面の笑みで感謝を伝えると「覚えのない感謝ってこんなに気持ち悪いのな。教えてくれてありがとう」と皮肉を交えてお返ししてくれた。何て丁寧な方なんだろう。この子ども用のアンパンマンチェアーを置いてくれたのもこの方に違いない。いい出会いがあったことを心の奥底で咀嚼していると、その御方が目の前に来て、僕のイヤホンを取り上げた。「どんだけデカい音で聴いてんだ。......何もかかってねえじゃねえの。そんなら返事くらいしてくれや。暇してんだろ、ちょっち手伝え」と言い、裏口に入っていった。「礼に美味いメシ食わせてやんぞ〜」と気の抜けた声に釣られて、僕は裏口に足を踏み入れた。

玄関の横にある傘かけにイヤホンをかけ、天板に置かれた皿に家の鍵と煙草、ライター、携帯灰皿を置く。荷物を置き、上着をかけ、椅子に座る前に寝巻きに着替える。今日は何を作ろうか、と考えた時、あの家で食べたものを再現しようと思ったが、上手く思い出せないので諦めた。今、無理にもがく必要はない。いつか思い出せる日を期待して、愛すべき日々を過ごすのだ。

来るその日が、新たな晷だ。

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