パンティパンダのパンティライン

「美しい」
慌ただしい店内でひとり、そう呟く波田月時万(ハダツキジバン)は、かれこれ五分ほど、空になった器の底を眺めている。
「お客さん、早くどいてくんねえかな」
その異様な光景に、店主は飽きもせず、新鮮に戸惑ってみせた。その言葉を合図に店を出る。ラーメン屋という大衆向けの飲食店にしては、あまりにも高級感のあるシルク生地で薄桃色の暖簾をくぐる。店を出たすぐのところに、ぽつぽつと、仕事着の人間が立ち尽くしている。順番待ちをしているのだろう。彼らは、そこいらの若造にはない深みをもつ大人たちで、中でも時万は、見るからに若造である。
同志達の熱い視線が時万から店内へと滑りゆくのを感じながら、ヒト気のない理容室や眼科などを横目に歩みを進めて、数段の階段を登り、やっと地上へ這い上がる。
ラーメン『ススルシルク』は、駅前徒歩六分のオフィスビル地下1階、その入り口から最も遠いテナントに店を構えている。営業時間や定休日は張り出されていないが、時万が通う昼時ならば、休日祝日問わず、必ず開いている。ストロングスタイルなのだろう。
そんなストロングさと打って変わって、『シルクのように滑らかなコシ』のある麺を売りにしているラーメン『ススルシルク』だが、本当の魅力は、時万がそうしていたように、やはり器の底にある。
器の底には、パンティパンダの写真が印刷されていた。パンティパンダとは、女性用下着であるパンティを盗んで、自ら身に着ける習性のあるパンダである、とパンティパンダTシャツ(パンダ柄パンティ)をスーツの中に着ている見るからに常連であろうサラリーマン風の男が教えてくれた。調べるまでもないが、調べても情報がない以上、店主が考えた架空の生物には違いないのだが、その旨について店主に質問すると、何故か言葉を濁される。しかしながら、勿体つけているだけとは思えない。実際に目にして、心打たれたのかもしれない。そう思わされてしまうほど、器の底に写るパンティパンダのヒップラインからは、艶かしさが溢れ出ていた。
時万がそうして足繫く通う理由は、パンティパンダ全種類コンプリート、それのみだ。出される器ごとにパンティパンダの履くパンティが異なる。新たなパンティパンダが出る度、パンティスタンプカードにパンティスタンプを押してもらえる。スタンプカードは、20個押せるようになっている。初めてこの店に来た時、
「20個揃ったら、何かもらえるんですか?」
「全種類揃えられたら、わかるだろうよ」
などと言葉を濁された。大方、サラリーマンの着ていたTシャツがいい塩梅だろう。Tシャツにも種類があるのなら、なかなか通い甲斐があるというものだ。
そうしてコンプリートを目指して、毎日通い詰め、一週間を越えたあたりから、味わうことをやめていた。現在9種を確認しており、白無地パンティパンダが3回被った。どうやら20杯食べるだけではいけないらしい。被り、という言葉は少しややこしいが、この様子だと白の無地を履いたパンティパンダが基本のパンティパンダ、呼称コモンパンティパンダであり、それ以外は基本的に1個ずつしか用意されていないパンティパンダ、アンコモンパンティパンダなのだと思う。厨房の端に見切れる大量の丼から察するに、一筋縄ではいかなさそうだ。
起床。電車通勤。出社。仕事。昼休憩。一駅分歩く。ラーメンを飲み干す。それより長くパンティパンダを眺める。会社に戻る。仕事。退勤。帰宅。就寝。
なんということはない。時万のただ過ぎゆくはずだった日常から、少しの非日常を押し出して、ラーメン、もとい、パンティパンダが新たな日常として加わっただけだ。特に難しいわけでもない仕事をこなして、少し寄り道して、帰宅して、何をするでもなく、気絶するように眠るのを待つ。そんなありきたりな日々を過ごしていた時万は、退勤後に、すんなり家に帰り、何事もなく眠りにつく、という、ただそれだけのことが、とても幸せに思えて、むしろ、生気に満ちていると感じた。
今までとは違う、変わらない日常を過ごす時万に倣ってか、この店は固定客が少しずつ増えているようにみえる。彼らもまた時万と同じく、パンティパンダという未知の存在の魅力に取り憑かれたのだろうか。しかし、たまに時万のそれとは違う想いを持った人もいるようで、ラーメンの底を一瞥するや否や、すぐに帰ってしまうのだ。レビュアーだろうか。気になり調べたところ、ラーメン『ススルシルク』は星3.1の評価を受けていた。時万の舌は肥えていないのでアテにはならないが、レビュー数が少ないことも加味して、パンティパンダというキャラクターもあって、これから流行っていくのかもしれない。一足先に新鮮な体験ができているようで、時万は少し高揚した。


そうして、通い詰めること30日目。ついに、全20種類のパンティパンダを目にすることができた。最後のひとつは、パープルパンティパンダであった。ひときわ艶かしく際どいパンダだったこともあり、いつもの倍の時間眺めてしまったものだ。
胸を躍らせ、800円を支払い、スタンプカードを提出する。店主の手によって、20個目のパープルパンティパンダスタンプが押される。その時、店主が初めて時万と目を合わせて、口を開いた。
「……はい、次のスタンプカード」
「…………えっ」
「毎度」
「あの……、すいません」
「なんでしょう」
「これ、何か、貰えたりとか、無いんですか」
「ああ……、だから、全種類揃えたら、って言っただろうよ」
「……」
時万は、いっそ怒ってしまおうかとも思った。なんて不親切なのだろう。ぷんすか。すでに怒っていた。わざわざ足音を鳴らしながら、店を後にした。しかし、地上に這い上がったとき、それ以上に、怒り以上に、興奮している自分がいることに気が付いた。何故こんなことに執心しているのか、まったくわからなかった。しかし、それでも、それだけが、その興奮だけが心地よかった。次の日には、再び器の底を眺めていた。
そうして通い詰める中で、時たま、店の奥に入っていく客がいた。そのまま着替えて、店員として厨房に入る者とそうでない者がいた。彼らはきっと全種類を揃えた者に違いない。自分が一番になれないのを悔しがったが、それでも消えない情熱が時万の中には静かに渦巻いていた。
数か月が経ち、季節が変わった今も、その情熱は絶えずいる。今まで情熱の片鱗を感じたことはあっても、ひとつのことに執心したことがない時万は、その事実と、心を落ち着かせて向き合うことに違和感を感じていた。そうして、違和感を感じながら、パンティパンダを眺めている。パンティパンダがこちらをみた。それに呼応するように、隣の女子高生が黄色い声をあげる。履いているパンティは青紫だというのに。


パンティパンダは、実在していた。ここは、さして大きくはない動物園でありながら、パンダ舎、もとい、パンティパンダ舎が新設されていた。『ススルシルク』の店主から教えられて、来てみたものの、入口からパンティパンダが大々的に押し出されており、隣の女子高生の肩にかかる学生鞄にはキーホルダーがぶら下がっていて、その隣にはぬいぐるみを持った少女もいる。最先端を走っているような気になっていたが、時代に取り残されていたのは、むしろ時万の方だったようだ。
全国各地の動物園にパンダが増えているようだった。調べてみると、他の地域でも、様々な種類のパンダが出てきているようで、バクバクとご飯を食べる姿が可愛いハングリーパンダ、滅多に起きている姿が見られないスリーピングパンダ、など、パンティパンダ同様、キャラクター性のあるパンダが人気を博しているらしい。普段、決まった場所しか行き来せず、社内での交流も薄く、街中に出掛けたりもせず、コラボ商品など流行りを取り入れるコンビニにもあまり行かず、スーパーで買い物を済ませ、当然、ネットにも疎い時万には、世間の情報がほとんど入ってきていなかった。驚くほどに、世間はパンダ一色だった。


日本では、いま、第二のパンダブームが巻き起こっていた。


自分だけの世界を侵されてしまったような、当てどころのない虚しさが時万の胸を内から撫でた。しかし、それもひととき。時万にとって、パンダブームなど、どうだってよかった。知りたいと思ってしまったものは、何があろうと知りたいものだ。時万はとにかく、あの店の秘密が知りたかった。あのサラリーマンが着ていたTシャツが特典でなく、ただのグッズだとすれば、いったい全て集めた先に何が待っているというのか。
時万は以前にも増して通い詰めた。夜も変わらず営業していたので、一日二食を『ススルシルク』で済ませた。あのサラリーマンは来なくなっていた。自分の好きなものが流行ってしまって、熱が冷めたのだろうか。器の底のパンティパンダは、相変わらずこちらを見つめている。その視線に誘われるように、丼に食らいつく。今ならハングリーパンダに勝るとも劣らない可愛げがあるのかもしれない。
そんなわけはない。そこにあるのは愛情などではない。ただの探究心でもない。ただひとつ、知らないことがあるだけだ。この世界には、知らないことが数え切れないほどあり、知ることができないことも同じだけある。そんなことも忘れ、知らないことを知らないフリして、何よりも大切なパンティパンダが、時万を待っていると信じて疑わない。
まだ見ぬパンティ、いま知るパンダ。
あのとき、パンティパンダを誰よりも愛していたのは、間違いなく時万であっただろう。店主は、その狂気にあてられてか、いつしか器の底を眺めるのを咎めなくなっていた。どれだけ雑にラーメンを掻き込もうとも、パンティパンダを愛でる時間だけは変わらなかった。これこそが愛なのだと、後から時万は気づいたという。
空虚な生活に彩りをくれたパンティパンダ。内から湧き出てくる感謝。いつしか時万は、ラーメンを食べ終わるとき、ではなく、パンティパンダを眺め終わるとき、自然と手を合わせていた。そのルーティンをみた常連は、「私の手の内で行われていたそれは、感謝などではなかった」と語る。
心からの祈り、そして、感謝が通じたのか、最後の一杯は、すぐに時万の前に姿をみせた。最後の一杯を手に取った瞬間、時万は笑った。
「眩しいな」
光っていた。光り輝いていた。時万にそう見えたのではない。実際、眩しいほどに光っていたのだ。これが最後のひとつだと、白無地パンティを基調とした白いラーメンの向こう側にいるであろうパンティパンダが、優しく語りかけてくれているようだった。それは、この世に生を受けた瞬間であり、母の慈しみであり、全ての終焉だった。条件がなんだったのか、今となってはどうだっていい。『ススルシルク』の抱える底無しパンティパンダ。その底が手の届くところにあると知った途端、味わい尽くしていたはずの『ススルシルク』の看板メニュー『PPR(パンティパンダラーメン)』が生み出す作用を時万は持ち得る限りの五感で受け止めた。


この瞬間は、ただ、最後の一杯を味わうのみである。


いつもと違って強く眩しいために、逃してしまいそうになるが、しかし、その香りの方から時万の鼻腔をくすぐってきた。それは、鶏の香りであった。PPRは鶏白湯ラーメンである。スープをひとくち飲み干す。シンプルな味付けながらも、丁寧に煮立ち、濾されたであろう鶏ガラのコクが時万の持つレンゲを動かし続ける。麺が少し浮いてきたところで、取りやすいものを数本拾って、ススル。啜る音が心地いい。調理場からの機械音が鳴り続ける店内にいながら、自らの中で鳴る音はよく響く。少し縮れたストレート麺は、啜ることの気持ちよさ、そして、『シルクのような滑らかなコシ』を大切にしていることがよくわかる。完飲を前提としているためか、特別濃くはない味付けも、重ねていくほどにじんわりと広がっていく。
そうして、ひとしきり味わった頃に、光り輝くスープの海から麺を引き上げ、眺める。それは、眩しさで消えてしまいそうなほどの白い麺だった。初めて見た時、薄く透明なスープに浮かぶ白い麺は、時万に違和感を覚えさせるのみであったが、今やそれは、聖なる泉に浮かぶ純白のパンティでしかない。PPRの生み出す違和感は、パンティを食すという疑似体験そのものであり、それこそが『ススルシルク』の追い求めたラーメンなのだと、終に時万は気づいた。156杯目のことだった。
その体験を認識してから、すぐさまその終わりが来てしまう。時万は少し寂しい気持ちになり、替え玉を頼もうかとも思ったが、そこまで含めて体験だろうと、気持ちよく諦めることにした。そうして、汁を飲み干す頃には、増していく眩しさに、目をうまく開けられなかったのを覚えている。


店主も目を伏せるほどの光に、いち早く、時万の目が慣れてきた頃、ついにまみえる。またしても、時万は笑った。
「全く、酷いな」
最後にふさわしい存在感を放ちながら、こちらを見据えて鎮座する。それはまさしく、ゴールデンパンティパンダであった。これまでにアンコモンパンティパンダすら何度か被っている中で、ついに出会ったこのゴールデンパンティパンダはスーパーレアパンティパンダといえるだろう。震える手に抱えられている器の底では、ゴールデンパンティパンダのゴールデンパンティがゴージャスなゴールデンにシャイニングしている。地下から漏れ出すその光を地上から目撃した、通りすがりの写真家は、「私のカメラに収まる光ではない」と語る。
艶かしさを通り越した魅力が溢れる、パンティパンダの頂たるゴールデンパンティパンダは、短くも長かった時万の旅の締め括りに充分すぎるほどであり、そして、それ以外にはない、とも思えるものだった。
光り輝く器を店主に差し出す。受け取る店主の表情はよく見えなかったが、その所作にはあたたかさを感じた。800円を支払い、スタンプカードを提出する。店主の手によって、103個目のゴールデンパンティパンダスタンプが押される。店主が時万と目を合わせて、口を開いた。
「兄ちゃん、ありがとな。こっちに来な」


何も言わず、付いていく。過度な期待はしないことにしていた。所詮は、いちラーメン屋で、いち飲食店である。知れるだけで、それだけで。飢えは満たされ、生きていた。自分は確かに生きていた。そのことを知れるのだろうと、そう、思い込むことにしていた。溢れ出る欲情を抑え、ただ強かに歩み、あんぐりと開いた扉を跨いで、店主と共に、店の奥へと這入っていく。
店主が灯りを付けると、扉の向こうには、店内よりも少し広い空間が広がっていた。壁は打ちっぱなしで、所々欠けている。随分と古そうだ。ぶら下がる電球は埃が被っていて、薄暗いし、椅子はひとつもない。従業員が一休みするには、あまりに整っていなかった。やはり、時万のような人間のための部屋なのだろう。部屋の中央に行くと、奥に大きな扉があるのがわかった。なるほど、かつて出てこなかった人たちの行方を知った。間もなく店主は時万に向き直り、
「兄ちゃんになら、託してもよさそうだ」
唾を呑み込む音がわざとらしく聞こえた。
「あんたが初めてだよ」
店主はなんだか嬉しそうに、そう言った。時万は、初めて、という言葉に違和感を抱く前に、店主の差し出す、ゴールデンTバックを手にしたのだった。


「…………Tバックは、パンティじゃねえ!!!」


そうして、店主を殴り飛ばした。
酷く眩しかったのを、今でも覚えている。


……


こういう、普段書かないような文章も、どうやら愛せそうなので、これからも変わらず、自分の知らない自分も愛せていけそうです。


……


その後、時万はラーメン『ススルシルク』に二度と来れなくなってしまうが、そのことをとても喜んだ。何故だろう。


……


最後まで読んでいだたき、ありがとうございます。
本編を普通に楽しく書いていましたが、思い付いたので、ウミガメのスープにしてみました。簡単なものですが、よかったら解いてみてください。
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ちなむまでもありませんが、本編には全く関係ありません。

||||°C°|L|L < ほんじゃま

(||||°C°|L|Lのブログに載せられなかったので、こちらに載せました)


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