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昨今のHSPという言葉について:2

前記事は以下

という感じで、書き出したは良いものの思いの外長くなってしまい。

丁度いい機会かなぁと言う感じで、本腰入れて触れてみようかと思います。

前記事からの続きなので、自身の話から始まります。

なので、ここから読むと少し分かりづらい内容になると思いますので、ご注意をば。

母の闘病生活で私の見せた動き

先にも挙げたように、不思議と治療の甲斐云々すら飛び越して、母とお別れするという現実がやってくるという、なんともまぁ親不孝な感じ取りをしてしまったんですね。

それだけでなく、それに合わせて治療中に発生するであろう精神面での負担が少なくなるように、少なからず日常=時間が限られてしまうけど、家族がそばにいる状態を作ろう。

こんな心持ちになりました。

だから何だって言うんだ!誰だってそういうことは考えると思うぞ!

と、言われそうですが、ここで病状悪化に伴う悲しみや辛さというのは感じなかったんですよ。ただただ、淡々とこの先母が亡くなる、もう会えなくなるんだという気持ちだけで。

なので、結構冷静で居たんですね。

そして、母の入院なので夫である父も合わせて同じ経験を初めて迎えるわけです。

もうね、父については省きますが、それまでの父の状態を考慮すると、何今更後悔してるんだよ、だからあれほど母と仲良くしろ、大切にしろって言ってたじゃんっていう、なんともまぁ怒りやら悲しみやら呆れやらで、どちらかというと見限る、見放すような感じでした。

とはいえまぁ、家族として接しないわけにもいかないのでね。看病溶かしたこと無いからわからないという父にこういう事をしたら良いよ、こういう事をするのが良いよと、私自身体が強い方ではなく、痛みや体調の変化について結構些細なものまでも感じるタイプだったので、そういう経験から苦痛を持つ人との接し方を教えました。

まぁ、出来ませんでしたけどね。喉元すぎればなんとやらじゃないですが、ここで吐いた後悔の言葉はこのとき限りとなりました。

と、父のことは置いといて。

いざ、母が入院してからは、ほぼほぼ毎日のように見舞いに行くというか、なるべく一緒に過ごすようにしてました。

先にも書いたように、この時既に私の方も精神的に病んでメンタル崩してただけでなく、今になってようやく理解しましたが、とにかく色んなものを感じ取りすぎる=脳での処理量も多く、無意識だったり、別な事に意識を集中させていても頭が動いていろんな感覚を処理してるというのを感じており、すっごく眠くなるような状態でした。

話しすぎると別な内容になってしまうので、軽く済ませますが今では40年分のツケという感じで、疲れ関係なく否応なしに眠らされる=意識が落ちそうになる、落ちてしまうのがわかるので横になるという生活になってます。

まぁね。母の方も母の方で、私の状態がわかってますし、この時点で後悔を抱えていたかわかりませんが、「無理をせずにあんたも家で休みな。私はだいじょうぶだから」とひっきりなしに言ってはいました。

ソレに対して、私の方も「なーにいってんの?辛いのはアンタのほうじゃん。眠ってるときは横で私も寝てることあるし、きにすんなー」って軽くわらいながら、なるべく負担にならないようにしながら声をかけたりしてました。

そうこうしてるうちに良くない状況になり、ガン本体では無いにしても開胸や開腹の手術をする機会を数回迎えます。

この際も、手術室に入る前には母は「帰りなさい、帰って休みなさい」っていうのですが、適当に相槌というか返事をしつつ、実際は何時間かかろうが終わるまで待ってる、そして終わってからも一緒に病室に戻って過ごすという状態でした。

そんな感じだったからか、母が目を覚ましたときには私がいることには毎回驚いてて。わかって入るものの、待っててくれるとは思ってなかった様子。

そしてね、少しこう困り顔というか泣くのを我慢してるというか、そんな表情で「あんた待っとったんね」って。

そりゃ当然です。打ち明けてないですが、少なからずの家族の時間を提供すると決めたわけですから。

とはいえ、いつもの調子というか「あー、なんか、結局待っちゃったねー。父のことは放って置いてもいいし、きにせんといてー」と軽く流してたんですね。

ま、そうこうしてるうちに、一時退院は迎えたもののその際に悪化して救急車で病院に戻るという自体になり、ここからが正念場という感じになります。

この先で見せた周囲との違い

母には姉がいますし、関係も良好、また皆地元に住んでますし、お見舞いに来たり、悪化してからは夜間についてくれたりしていました。

この位置退院後の再入院以降、自分で言うのもなんですが周囲と相当に態度が違う姿を見せてたと思います。

あくまで泣くときは、見舞いに来る家族や母の姉(叔母)や従兄弟が来たときに、悲しむ、途方にくれる、そういう姿を見せる時、かつ母から離れた場所で話してる時にしか、私は涙を流しませんでした。

というか、今になって思えば私が悲しいのではなく、周囲の感情が私の中に入ってきてそうさせてた、という感じ。こういう部分が、感受性が高いという話になろうかと思います。

周囲に人がおらず、私と母と二人のときだけはいつもどおり。

個室に移ってからは気兼ねをしなくて良くなったので、テレビは流石に問題ありそうということで、所持してる小説や漫画などを持っていって読みながらだったり、ベッドの柵にもたれかかって一緒に寝てるという感じで。

起きて話をしてる間は、特に悲しさを感じませんでしたし、泣くこともありませんでした。

また、母と接するにしても、看病という調子をなるべく出さない、感じさせないようにしてる=ガンの発覚以前にもあった、母が体調不良のときに見せる私の姿をまんま再現してる、というか多分してたんだと思います。

そして、悪化してくるとやはり敵は痛み。

痛みと戦う中で、そもそも私と似た性格だったので入院して苦しんでるのは自身であっても周囲への配慮を優先してた母も、流石に自身の辛さとそれによる感情の変化を見せるようになりました。

こうなってくると、見舞いだったり看病をしてる側のはずが、「そうは言っても状況が状況だし、相手の気持も…」という感じで、私からしたら「は?何いってんの?ふざけんなよ?マジキレしますよ?」という感情を必死に抑えるような、言動を周囲が見せ始めたんですね。

その度に、ちょっとゴメンって相手、まぁ叔母がほとんどだったのですが、病室の外に連れ出して「気持ちはわかるんだけど、痛みって我慢するだけでも相当ストレスだし、ここまできたらもう我慢してるだけで必死だから、そういう物言いはやめてね?」って、注意するようになりました。

基本、泣き虫でバカにされてた私なのですが、泣きもしなければ、悲しさを口にするわけでもなく。そしてまた、いい子というか、相手を思いやる言動行動をするのは叔母たちもわかってたと思います。

そんな私が、相当に目つき悪くして「いい加減にしろよ?」みたいな迫力だったんでしょうねぇ。

流石にそういうのは頻度が減って行きました。

そうは言っても、完全には無理だったし、状態としてはおそらく寝入ってると思われる状態だった、という油断から病室で、アレコレ注意を小声でするという事をやってしまってました。

多分、こういう私の行動が最期に残した、後悔とか謝罪に繋がったかと思います。

そして迎える最期の時

似たりよったりな性格というだけでなく、片頭痛だったり、風邪の引きやすさだったり、花粉症なんて話題に上る前から二人してズビズバやってたり。

こんな感じで、割と親子であり友達、まぁ最期まで母には隠してましたが地で隠しきれなかった「私がもってる性別の悩みやその他」もあったからか、結構仲良しだったんですね。

それを踏まえたとしても、最期を覚悟し始めたときにもしもが来たときの自身の扱いについてのメモ等は全部私にまず渡して、私が内容を確認した後に家族に知らせるという状態で。

おい、父親どこ行ったんだ?ってなってましたね。

余程に近しくて知ってる人なら、母と私であれば当然の関係性とその行為って感じなんですけど。

そこからしばらくして、というか今思えば早かったなぁ。

最期の覚悟を決めて、モルヒネによる痛みの軽減を母が希望しました。

この時に二人だけにしてほしいという、母からの要望があり聞かされたのが最期の言葉、です。

今までもHSPとか感受性の話をする際に取り上げたことはあります。

そんな感じで、当時はなんでそんな話したし?親子ってだけでなく、私と母だから当然の事をしたまでなのに、当時の私はこういう感情や思考しかわかず、「なぜ、そのタイミングになって母が私に伝えたのか?」を1人考えながら、過去を振り返り掘り下げる事になるような内容でした。

流石に結構な時間が経過してるので、まんま言葉はかけませんが、内容は嫌でも刻まれてるので、その辺を書こうかと思います。

「なんだかんだで、家に帰って休めっていうのにホント毎日見舞いに来て。あんたは変わらないっていうか、そのまんまっていうか。」

こんな感じで話が始まったんですね。

「今になって思い出したけど、弟の妊娠が発覚したときから、あんたは妙な行動を取り始めてね。妊娠したって話はあんたにしてないし、そもそも話した所で、そういう事を理解できるはずもないのに、何でか私のことを心配したり、守ろうとしたりして。買い物なんかに行っても、自分の体ほどのサイズがあって持てない買い物袋を、僕が持つ!って言うことをきかなくて。でも、持たせてみたら持てないし、それでも引かないから小さい袋を追加でもらって荷物を持ってもらってた。」

正直、へー。でも、ソレって普通じゃんねって返しちゃったんですけど、よくよく考えると、私と弟の年齢差は2歳。生まれた時が0歳だとして、私は・・・・あれ?弟4月、私5月、弟はほぼ十月十日だったって話だし。

んんん?私って1歳でそんな事してたの???

母が亡くなってしばらくして、あまりの悪化に通院を再開して今に至りますが、その通院時に幼い子どもを見てても、なんていうか、ね?そういう行動を1歳でするの???って相当に悩まされる内容でした。

「それ以外でも、子供らしくないっていうかなぁ。家事をしてても必ず邪魔にならない場所で遊んでるし、遊んでる場所が悪くて私が通りそうなときはいわなくても先に場所を変えてたし。当時は、流石にあまりにも感づいてる、気遣ってるとしか思えない行動しててね。その時は、この子、この先気を使いすぎて潰れるんじゃないか?って心配したりもしたんよ」

まぁ、申し訳ないですが、見事に的中させてしまい。話してる最中に、もうしわけねぇ…って内心謝ってました。そしてまだまだ続きます。

「そうこうしてるうちに弟が生まれてね。それからも構ってほしいって言うどころか、弟の心配するわ、面倒みようとするわ、私に対しても明らかに気遣ってるっていう行動を毎日してて。とはいえ、成長して言葉を話すようになった頃から少しずつ自分の意見を言うようになってね。少し安心したんよ。」

まぁ、この頃で性別違和っていうか、自分が男の子だって言われても、何いってんのはぁ?ふざけてんの?じゃないですが、聞き入れないわ、将来お母さんになりたいとか、自分は赤ちゃん生むんだとか、ほんとにね。

普通の子じゃありえない言動もして、怒りはすれど雷を落とすことがなかった母に強烈に雷を落とされた=叱られて大泣きしてわめいたのもいい思い出ですよ。

で、まだまだ続きます。

「でも、その安心は油断だった。結局あんたは心配になることはあったものの、普通に生活してるように見えて。精神的に参って仕事辞めた時に、はっとなってね。それ以外でも、よくよく考えれば、何かあれば一番相談にのってくれるのはあんたで、隠し事も無いくらいに話せるのがあんたでね。今になって思えば、親として私があんたを守ってたつもりだったけど、結局つもりで、私のほうがあんたに守られてばかりだった、本当にごめんね」

というのが、母の最期の言葉というか、話です。

最後の最後に、

「お父さんが残るし、今のあんたにお父さんを任せるのはすごく心配だけど、あんたならうまくやれると思うし、任せられるのはあんたしかいないから、お父さんの事よろしくね。そして、これから先は誰かのためじゃなく、自分の幸せを一番に考えて、自分らしく生きてね。今までありがとう」

こう、締めくくりました。

この後、モルヒネの注入を開始し、徐々に失われていく本来の母の姿を目の当たりにしながら、これまた最期の最期を迎えるまで、ほぼほぼ泣くことなく過ごすことになったわけです。

ここまでの話についての余談ですが、これだけでなく、どうせ悲しむのは他の人がやるし、それを止めることは出来ない。止めることが出来ないからこそ、悲しみの感情が間違いなく母を最期にいざなうだろう。

そんなのは断固拒否する。私だけでもいいから、最期の最期まで母につきあうだけでなく、抗ってみせる。

という、厨二病も真っ青な謎思考も発覚時に自然と降って来てまして。

モルヒネの投与を決めた後も、なんていうか最後まであきらめなかったっていうんですかね。

何があっても、母が諦めても、命が失われるという現実に対し、最期まで抗ってやんよ、くそったれ。

こういう気持ちも持ってたからこそ、泣かずに過ごせたのかな、と思います。

それ以後から現在まで

当時はまぁ、父のことはわかるけど、言うほどそんなに私ってしっかりしてたっけ?何でこんな話に?って結構混乱したもんです。

また、その母の最期の言葉というか話があったからこそ、逆算するという感じで、思い出せなかった部分が思い出されるというか、そういう事も経験してます。

ほんと、人間って不思議。

自分のことなんだけど。

性別のことだけでなく、色々あって父とはウマが合わないというか、そもそも現状を作ったのは父による行為も原因の一つなのは間違いないのでね。父のことは良いとして。

うーん?うーん?そんな話をされる程・・・・・って、ああああああ!!

感受性の問題で、若干の対人恐怖を持ってるからと思ってたけど、そういえば幼稚園に通い始めた当初は、母のそばに帰りたい、私が母を守らないといけないから!って幼稚園でわめいてたわ・・・・・。

これ、記憶の捏造とか、母にそういう話をされたからというだけではないんですよね。

また、高校卒業に合わせて進路を決める時の話になりますが、高校で弓道部に在籍してただけでなく、普段の態度や成績に加え取得段位、仕事で顧問が遅れる際の監督の仕方etc色々評価されて、大学進学を勧められてました。

受験では無く、部活動推薦でって事で。

実際興味はあったものの、色々考えてみるとよろしくない状況に陥ってもいて。その中で、誰がどうという部分では母のことしか考えてなかったんですよ。

で、なんか嫌な感じもするから、就職しかないんだよなぁ、って就職する事を決意、そしてそこの部分でもそういうならと、顧問からの配慮もあってそれなりの場所に就職しました。

そして、精神的に参って、起き上がれなくなるまでそこで勤務という感じに。

この後も、進路を決める際に感じてた、嫌な感じやモヤモヤが的中する事になったりします。流石にまぁ色々問題といえば問題なので、詳細は省きますが、金銭的負担を結構やってたんですね。

弟が大学に行ったので、その学費面での工面とか。台風で家の屋根が壊れた際の修理費の工面とか。

と、これ以上は何なので、私が持ってる感受性と現実のリンクみたいな話もしてみようかな、と思います。

HSPって言葉とは全然程遠いようで、最後まで行けば、まぁ本当かどうかは別としても、そういう事もあると思うし、あるのかもしれないなぁ。そうなるとHSPとか感受性って言われる程、簡単じゃないのかも?というまとめ方になるかな、と。

感受性と現実のリンク

さてさて。今までもHSPという話に触れつつある程度は出しながらも、結構避けて通ってた部分に踏み込みたいと思います。

というか、こういう部分に踏み込むって相当に追い込まれたんだなぁ、私。トホホホホ。

とはいえ、話したからって事態の急変とかないでしょうけど、まぁ。

これまた不思議でね。今までは何が何でも避けようとしてたという感じで強く意識して避けてたのですが、ここ数日の色々もあってか、それ以外の何かがあるのか、もう書いてしまおうよ、という感じになってます。

とはいえ、本当に?って感じなのですが。

まぁ、余程に知ってる人でも、そうそうに気づけてないとか、そもそも自分すら騙してた道化師みたいなもので、私自身も忘れてたのが今になってという部分も多々あります。

また、如何せん記憶を頼りにする分、記憶の捏造云々が付きまとうのも重々承知のうえで書かせてもらいます。

あり得ないっていうなら、あり得ない理由を明確に説明してくださいねとかいうと、煽りになりそう・・・・・・。って言ってしまってるけど。

って、会話口調で文章を書いてるのもあってか、脱線し過ぎにも程があるし、だからこそ長くなるわけですが、触れてみましょう。

だいたい、幼稚園での出来事は結構記憶に残ってます。とはいえ、良い記憶は無いし、過去の辛い経験に引きずられてると感じ取られるかもしれません。

実際そういう指摘も通院時にありますし。ただ、私にとってはあくまで記憶を頼りにした説明にしかすぎないんですよ。病院でも実際は、「なぜそうあるのですか?」という質問があって、原因を教えて欲しいから説明してねって事で、過去にこう言う事がありました、そういうのでずっと心の傷をかかえてましたし、メンタル参ってても無理矢理気力で動いてました、という話をしてるだけでもあるのですが。

とまぁ、そう言う前置きもほどほどにして。

幼い頃からちょっと変わってました。

ほんとにね。母は亡くなりましたが、特に母方の叔母とは親交があって。

話を聞けば、大人しくていい子だった、中性的というより幼い頃は本当に女の子みたいだから余計に間違われてた、こんなに小さい(手で示してますが幼稚園くらいでしょう)頃からいう事は聞くし色々出来る子だから母が羨ましかったetc言われるのですが。

まだ本音と建前とか、人との付き合い方が分かって無かったせいでしょうかね。

叱られる=相手の不満によるイライラから怒ってるだけなのか?それとも本当に叱られる事をしてるのか?を言うのを自然と感じ取ってて、納得いかない事には即座に「なんで?」って返してました。

それだけじゃなく、叱られてる内容に対して以前同じような事で叱られた、注意された時には違う事を言っていた=その場限りの対応というか、その場しのぎになってたのを見抜くというか、確実につついてましたね。

まぁ、そのせいで叱る=怒るになるのですが、正直今でも大人げないってレベルで感情丸出しで怒られてました。

怒りの感情は殴られるような衝撃があるというのも、その頃からだったのに本当に何やってんだ私。でも、そのせいか、思い通りにならない不満を怒りで返された時はそういう衝撃だけでなく、諸々の処理が追い付かず泣く事で発散する=泣き虫という扱いにもなってましたね。

おかげで、まだまだ幼稚園当時でも概念は完全に理解できておらず、親に言っても叱られるからという程度でしか、自身が男の子というのを受け入れていなかったため、男(の子)のくせに!とか泣いてる事を諫められても火に油という感じで。

まぁ、諫められるというのも相手の言い分なだけで、本当にイライラぶつけられてるだけだったんですよ。そういうのも分かってしまってるので、全然態度が違ってて。

そう言うのが小学校に上がってからも続くのですが、良い評価をしなきゃいけないという部分があったにしても、とにかくいい子で聞き分けの良い子、よく気が付くし、友人関係も良好、寧ろ面倒を見るくらいあって本当にいい子ですっていう、過剰評価を通知表や連絡帳に書かれてました。

それを見て、分かってるのか、分かってないのか、怒られる事多いのに自分はいい子なの?と母に質問したりもしてて。

また、動物図鑑で進化論の図をみて、なんでこんな図になってるの?進化してるなら、鳥さんみたいに空を飛ぶ人が居ないのは何で?お魚さんみたいに水の中で生きてる人が居ないのは何で?とか。現在の私が対応しても、ドン引きするような事を口にしてました。

そこで、説明しても掘り下げて突き詰めようとするというか、人が作った概念に対し真っ向から反論するというか、なんで?なんで?それおかしいんじゃないの?嘘はだめなんじゃないの?泥棒の始まりじゃないの?と。

嘘つきは泥棒の始まりとか、地獄の閻魔様に舌を抜かれるとか教えようものならそれを利用して、あれやこれや。なんで、そんな所に気が行くのか?みたいなね。

薄っすら程度ですが、嘘をついてるというより、大人は何でも知ってる、だから子供は大人のいう事を聞くべきというのを崩そうとしてたような部分も記憶してます。

思い出す程、幼い頃の私っていい子どころか、厄介な子です。自分でそう思う程に。

これが小学校に上がっても続くのですが、性別の部分でしょうかね。幼稚園からの持ち上がりの同級生も多く、幼稚園で普通に女子グループにいた流れが小学校入学当時も続いてて。

また、どうしても危なっかしいとか、怖いとか、近寄りたくないっていうので、同性の友達は凄く限られてて、どちらかというと女子と居る方が多いせいだったからか、イジメを早速うけるようになりました。

加えて、今でいう過敏性腸症候群の様な症状、学校に行こうとすると腹痛と下痢、しかも痛みは半端ないを示すようになったのですが、時代的に学校に行け!とたたき出されるばかり。

そのせいで学校で用を足すという事も多かったのですが、これがイジメの大きな原因になったんですね。トイレから出てくると、数人から「ウンコマン、うわくっせぇ!こいつ絶対漏らしてるぞ!」みたいなとんでもないデマから始まり、それを騒ぎながら廊下を走り抜ける物ですから、事実関係はどうあれ、周囲からもその時だけは汚らしいという反応をされ、周囲の感情もこの時にはもう嫌でも感じ取ってたので、そういう部分と、事実関係をちゃんと伝えても聞いてもらえない、そもそも漏らしもしてないから臭くも無ければ・・・・という、現実とのズレによるショックでよく泣いてました。

加えて、まだ道徳の授業とかがあって、イジメはだめ、悪口はよくない、差別はよくないと教えられるし、普段から教師もよく口にしてる物の、男の子のくせにすぐに泣いてしまうという部分ばかりとりあげられ、イジメた側の注意は少しで、私に対してなんやかんやと口出しされる様な状態で。

小学生の頃って、結構暗黒期だった感じです。そのせいか、友人と遊ぶ事はたまにはあったものの、社宅住まいの頃は寧ろ帰るのを待ってる子が多くて、良く面倒をみる出来た子状態でしたね。

引っ越ししてからは、そういう相手が居なくなったので、ごくごく限られた相手と遊んでました。

また、小4の夏に引っ越しをしたのですが、小3~それまでの間に、それまで加われてた女子のグループに混ざってると、逆におかしいから、気持ち悪いからと引き離そうとする女子が現れて。

転校してからは、ほんともう胃がキリキリしながら、とにかく悪く言われないようにみたいにおびえながら学校にいってました。

完全暗黒期が小学校高学年の頃で、2年間担任とクラスメイトが変わらなかったのは良いとして。女性ながらに気の強い担任だったからか、ここで再度男子らしくなさを理由に、精神的虐待って言っても過言ではないくらいに厳しく扱われましたね。

だからもう、感情の大洪水というか大暴れというか、生きた心地しなかったですし、この頃からぐっすり一晩眠ったはずなのに、どうしても眠くなってしまうというのも訴えてました。

ほんともう、叱られるだけでなく何かしら人を選ばなければいけない(学級委員とか絵画コンクールの出展とか)事があると、何を言おうがキレて押し付けられるし、それが分かってるからと親に相談しても、怒られるのはあんたも悪いでしょって言われてて。

よく生きてこれたなってくらいだったです。

って、こういう話に偏るから、恨みっぷしって言われるんでしょうけどね。ただ、恨んでるとかはなくて。確かに辛かったし苦しかったし、辛さも伝えたいってのはあります。

ただ、現状のメンタルの病み具合の根底にあるものと言うのも現実だし、過去だからじゃなくて、これ以前からもずっと傷が残ってるというか、イメージで言うなら未だにナイフが相当数刺さったままで出血してるけど、辛うじて生きてますよって状態でもあって。

そしてまた、日常的に色々感じ取れるもんですから、問題が無ければ良い子というのが、だんだんと進化したというか。何でそんなに配慮ができるのか?怒らないでいう事を聞くのか?と言うのを同級生からちらほら聞かれるようになったんですね。

それに対して、全然私はそんな事ないし、そもそも無意識でやってるからか自分で気づけないって感じで。

それが成長を重ねていくと、こう言う経験があったから無意識にやるようになってた程度まで気づくようになり、今ではそれ以上に持ち前の感受性が働いて自然と予測とか、起こりうる可能性というのを、敢えて行動を制限して良くない状況=私自身を含めた環境に発生している変化を観察、掘り下げして、とにかく情けは人の為ならず=何がどうあれ因果応報で少なからず自分に還るのを感覚的に感じ取って未然に防いでいたという答えにたどり着いた、そういう感じです。

ここまで言うと、HSPを掘り下げてる人ならDOESという性質の部分を無意識にやっちゃってるんだな、全てが本当でなかったとしても、こう言うタイプって本当にいるんだなぁ、と感じ取ってもらえるかな?と思います。

良くも悪くもHSPという言葉が今ほど知られてない頃から知ってましたが、昨今の変化って、学術的な内容とか根本云々から見てもおかしいと感じるのですが、それ以上に意図的に捻じ曲げられてるなってのを薄っすら感じなくもありません。

という事で、ここからはちょっとHSPと言うより、若干オカルトチックな要素が入るのでエンパスとかそういう切り口も合わせて読んでもらえれば、みたいな内容も話していこうかな?と思います。

まだまだあるよ

そんなの偶然じゃん?と言われると思いますし、言ってくれてもOKです。こうやって事実関係を整理しながら書いてても、自分で自分がうさんくさいなぁと思わなくもなくて。

でも、それ以上に点と点を結べば線になる、線と線を結べば面になる、それを組み合わせれば立体になる、ではないですが、私自身をかたどるものとしてそういう線も「あるのかもしれない」そんな話です。

・母の早い死について。

胡散臭い話です。ですが、中学校に上がり自分の部屋を与えられ、一人で過ごしてると時折、「母は多分早めに死ぬ、いつになるかわからないけど」とか「多分、ガンで死ぬんだろうな」みたいな事を時折考えてました。

すごく胡散臭いですね、我ながら。そこから、その時どうするか?ではなく、その先どうなるんだろう?と考えても何も思いつかないというか、普通に考えれば、これまた幼い頃から「長男で跡取り」という母方の事情の言い聞かせみたいなのもあって、結婚して子供も居てって感じになりそうなのですが、不思議とそういうのがわかなかったんですよ。

まぁ、今となっては実際結婚してないですし、今更ながら性別違和というか抱え続けてた性別の部分を明らかにして過ごしてるので、結婚しなくてよかったなぁ、子供生まれてたら、これ自分が受けてきたアレコレより間違いなく辛いし嫌になるわ・・・・・とか思ったりしてます。

そして、実際にその時を迎えたわけで。まぁ、闘病に関しての意識というか、感じ取った物は話しましたが、それ以外の部分で「あちゃー、自分用の部屋を貰ってから想像してたけど、現実になったなぁ。これ自分のせいなんじゃないか?」っていう感覚もあったんですよ。

ほんと、再度言うのもなんですが、胡散臭いなぁ。

・性別についてのアレコレ

こうやって部屋を与えられたころって相当に性別については悩んでて。気が付けば幼稚園の頃の自分が出てくるというか、体が女性らしくならない事に違和感とか辛さを感じてました。ですが、現実問題として体は男性ですし、長男で跡取り効果もあってか、嫌でも現実の体側に意識を戻すという感じで。

完全に対立してるというか、強く実感はしてませんでしたが、私自身が二人いると言う様な状態でした。

そもそも、性別の部分についても何て言うかな。どうしても、いつまでたってもしっくりこないし、心というよりもっと別な部分の深い所から、更に別な私or何かが否定しに来るという感じでした。

なので、性別違和であっても、特に体は男性でってタイプの人がよく言ってる(かどうかは不明、界隈に関わらないようにしてるので)、女性になりたいとか、女性らしくとか、そういうのも実はしっくりきません。

ここで明かすのもなんですが、何言ってんの?みたいな感じです。

妙に拘るように、女性らしくとかやってる事を伝えてる人を見ると、寧ろ無意識とか深層意識みたいな根底では、自身は男性って感じてそうだけど、それに抗おうとしてる、と言う風に不思議と感じてしまいます。

同族嫌悪っぽいですが、私としてはそうじゃなくて。実際に、うまが合う人も居ますし、意に介せずというか私とは違った感じ方を持ってて、自分らしい自分象を貫いたら同じく体が男性だけど、性自認がそうじゃなかったんだなって、納得出来る人ってのもやっぱり居るんですよね。

で、こういう話だと性別移行手術という手段もあったりします。

それについても、済ませた人に対し、やたらと元男性とかを表に出す人には違和感、そうじゃない人にはないも感じずという状態。

なんかこう、手術した事、戸籍を変えた事を誇らしげとか自慢げに語る人も居るように感じます。そういう人には、自分らしくなるためにやったことのはずなのに、なんでそう何度もくちにしてるの?そもそも、戸籍まで変えたのなら堂々と出来るんだし、手術した事、元が男性であることとか、どうでもよくね?完全ではないにしても、女性として生きていけるのに、って思います。

私の場合、幼少期に子供を産んでお母さんにというのが現実問題として断たれたから、という部分以上に、別な形で自分としての性別の在り方みたいなのがあるし、それは同じ悩みを持ってても違う考え方をしてる人も居るし、変に主張すると、マイノリティの中にマジョリティとマイノリティが追加で発生して良い事なしになるのでは?と感じてたりします。

そもそも、シス=体の性別通りに生きてても、色んな人が居ます。中には宝塚歌劇団の男役みたいな感じで、そういうのに憧れて目指す人もいるわけで。

そういう人が、希望通りに男役になれた、宝塚歌劇団に入団出来たって事をやたらめったに主張してますかね?とかね。

こう言う感じ方をするのも、少なからずなんかこう道を見失ってそうだけど必死にそうあろうと葛藤をしてるのかも?というように、感情が流れ込んでくるというか、無意識とかそういう部分で何か感じてるのか、不思議と疑問が発生するんですよね。

人の事だし、その人のやりたいようにやればいい。そう言うのは重々承知なのでここで明かす必要もないわけなのですが、まぁそんな感じで性別の部分であっても、自分の物ではないけどなんかこう感じてしまうという状態です。

・虫のしらせなのか?死期の悟り

母の話はちょっと別口で書きましたが、なんかこう自然とそう言うのも降ってくるというのを何度か経験してます。

・電話がかかってくる→なんかこれ嫌な感じがするな→訃報

・祖父について、最期が病院だったのですが救急車で運ばれる際に、祖父の顔を見て、「あ、これもう、おじいちゃん帰ってこないんだ」という謎の思考?の発生

・祖母について、体調不良で風邪って診断らしいけどこれは何か嫌な感じがするなあ。数日後に自宅で家族の起床後に発見

まぁ、偶然かも知れません。ただ、言うに言えないので黙ってたりしてますが、なんかこうその時を迎えた時に、非常に良くない話ですが、すっと腑に落ちるというか、感じた通りだったなぁっていう納得?っぽい感情が自然と浮かんでたりします。

この辺については、あまり良くない話でもあるのでこの辺で。

・共感性云々の部分

HSPの話に触れて、深掘りしだすと共感性の話が出てきます。いわゆる、傍で誰かが泣いてると、それを感じ取って一緒に泣いたり、言葉をかけたり、寄り添ったり、と言う物。

これは、簡単なようで難しい部分があると思います。

少なからず誰しも共感ってする物で、喜怒哀楽の感情って周りにとか傍にとか、自分以外の他者からの感情に引っ張られるという事も多く。

なので、色々条件を冷静にみないといけないんじゃないかな?と。

なんていうか、HSPが広く知られたのは良いですが、僕も、私も、俺もってなってるのは共感性の部分もかかわってるのかな?と。

HSPの話になると共感性はHSPの人が持つ4つの性質の一つであるのは確かだと思います。

とはいえ、HSPの4つの性質DOESは全部持っててHSPという側面もあるようなので、共感できるからHSP!っていうのは、まず無いんじゃないかな?と。

まぁ、個人的な話になるのですが、なんでこの程度で泣いてんの?なんでそんなに自分の事みたいに喜んでるの?とか、周囲からなんでかツッコミを受けることが多いです。

いや、嬉しいじゃん?悲しいでしょ?って言っても、確かにそうだけど、あんたが見せる程にはないよって感じで、突っ込まれると、自分って変かな?って聞き返す事も多く。また、聞き返しても、変ではないけど、ちょっと度が過ぎるっていうか、感情を表し過ぎじゃないかな?と返されます。

こんな感じで、共感性って部分でも何でか周囲から浮いてしまい、普通だと思ってても周囲からすれば、これまた過ぎてるみたいな話になる事が殆どなんですよね。

不思議。

・相談上手、教え上手

誰かの相談にのったり。人によっては、勉強や部活動、仕事等で自身が持ってる物を教えるという事はままあると思います。

これについても、あくまで普通にやってると自分では思ってても上手とか、相談するならやっぱりお前に相談するのが一番良いな、と友人関係の中でも一番の相談先、と言う風になったりします。

特殊なケースだと、彼氏に相談するまえにってケースも。

なんで私なん?って聞いてみると、彼氏だと相談するには不安があるとの事。内容は詳しく書ないですが、家族内で発生した事態の話だったのですが、いやそれ彼氏でも良くない?って思うのですが、まぁ相談してきたからには私がベストだったんだと思います。そして、話を聞いてあげた結果、やっぱり私に相談して良かった、安心出来たとの事。

はて?何か特別な事しただろうか?って感じですが、そういう事では無くて普段から、会話の様子だったり雰囲気だったりで、選んだらしく、とにかく相談に乗るのを見てると上手いから、という事でした。

あとは、教えるという部分でも、上手く教えられないからとパスを受けた事もあります。とはいえ、これは部活動での事で、自分たちだって教えてもらってるし、そもそも普段から体動かしてる事教えればいいじゃない?って感じですが、出来ない、お前は教えるのが上手いから頼んだ!って、ね。

上手くはぐらかされた感じですが、人数も多いし、教える側も同数居るしマンツーマンで、と最初は言ってた顧問も、「まぁなぁ、でもなぁ。正直言ったらお前くらいだからなぁ」って事で悪いけど全体見てという感じで見る羽目に。

まあ、教えた後輩からも、教え方がわかりやすかったって事だったのですが。

当時はこの辺わからなかったのですが、今になって思い返してみると、言われてみれば良く気付いてるよなぁ、って感じで、ちょっとした違和感に気づきますし、教える相手によっては「どうすれば伝わりやすくなるか」というのは常に意識して教えてました。

なので、個人個人に合わせてというか、教える時の言葉のニュアンスは結構気にしてて、同じ事を教えてるのに言葉は違うという状態だったのを思い出します。

とはいえ、それで教えた後輩たちも、あの時先輩はこう言ったから!みたいにならなかったのも、これまた不思議な所。自覚はないけど、後輩同士であの先輩よく気づくわ、マジでって話だったそうです。

これ以上書くと長くなりそうですが、この辺社会人になってからも、教えるのが上手いとは言われてましたね。

同じフローチャート使って、作業を教えてるのですが、なんでかこうお前の説明じゃないとわからんから!って、めっちゃ仕事抱えてて電話もしてるのにしつこく呼び出そうとされたりもしたもんです。

今は見る影ありませんが。

ようやくのまとめ

2記事に分けて書いたけど、後半は自身の話が多くなりHSPっていう言葉についての話なのでは?って感じですが。

勢いとか、会話口調=脳内で誰ともない相手に会話しながらとか、そんな感じで書いたので、この様なとりとめのない文章になってしまってる、という感じでしょうか。

文才?

ないですよ、そんなものー!

まぁ、書きたいように書いただけ、かつ、今まで余計なお世話が働いて、書くに書けなかったとか、書かずに消した内容も多分に含まれてます。

とはいえ、今回の部分に多くある自身の経験が、HSPとか感受性が高い人とかそういうタイプの典型とかいうつもりは毛頭ありません。

散々書いておいて、言い訳臭いんですけどね。これも分かってます。

あくまで、HSPという言葉が無い時代を生きてて、今でも知らない人でも、あんたは感受性が高すぎるっていうのですが、その元となる話というだけだったりします。

正直な所。

走ることとか、余程でない限り出来る人が殆どだと思います。その中でも早い人、遅い人が居ますし、早い人が大会で常に優勝ってわけでもないし、余程でなければオリンピック出場すら叶わない。

そのオリンピックでもメダルを取れるのはごく一部。ただ、メダルを取ればメダリストと呼ばれる事もある。

そのメダリストみたいなのがHSPって言葉じゃないかな、と。

あくまでイメージでね。

なので、感じるとか感受性とか誰でも持ってるものだし、運動能力と違って高ければオリンピックに出られるわけでもなく、知能指数みたいに高ければ良い大学に行けたり、知ってる人にしかわからないと思いますが、MENSA会員になれるみたいなそう言う要素もないわけで。

まぁね、私の方もしつこいと思いますが。

感受性って良い部分、悪い部分があるとはいえ、場合によっては良い部分が悪い方向に働く事もあるんです。

痛みを感じ取りやすいのは体の異常に気付くのが早いわけですが、内容によっては我慢しなさい、我慢しろと、冷たくあしらわれるだけでなく、結構な痛みを我慢しながら耐えて日常生活送らされたりしなくもないわけで。

よく気づく、配慮ができるというのも、情けは人の為ならずを地でやってると言いました。なので、自己防衛って部分も含んでます。それは人の発する怒りと言う感情が苦手というだけでなく、体調に影響するし、幼ければ簡単に溢れて泣いたりします。その泣くという行為で、逆に相手が怒り、余計に叱るという感じで、悪循環生んだり、幼い頃からのストレスや傷を抱え続ける事になったりもします。

年齢限らず、色々感じ取るので普通と思ってる行動が、周囲から見れば異質に見えてしまい、不思議とかけなくてもいい声かけられるし、それがどうかしましたか?って言っても、気になっただけ、だから言っただけ、それでどうしたいもない、みたいなすっごく無責任な行為を日常的にされたりして、無駄なストレスを抱える事にもなりかねません。

多様性が認められる時代なんだ!

とか言われますが、認められたためしはなく、お前はおかしい、お前は間違ってる、思い込み、勘違い、気のせいetc

いい加減にしてください!ってのを、発生させない為に、正しく知ってもらうって言うか、そういう事の為に使う言葉なのがまだまだ現状だと思います。

生きづらいって付けてるのに、なーにやってんですか。

その生きづらさを無くすためにはどうしたらいいですか?

同じような人に知ってもらって、似たり寄ったりの経験をワイワイ話すのではなく、そうじゃない人に知ってもらって、特に幼い子供には私みたいなウン十年と抱える心の傷になりかねないんですから、事ある毎に子供の為だなんだいう世の中ですから、ね?

本当の意味で、子供の為になるように、知ってもらう言葉と言う風になったほうが良いのではないでしょうか?

そもそも、生きづらいとか人生重ねていけば嫌でも経験するもんです。それを普段からストレスはあれど、生き抜いてるでしょ?

という事で気づけば2部構成になりましたが。

お疲れ様でした。

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