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呆れカエル

ケーロッケロ。

私はカエル、カエルさん。しかも、呆れカエルというカエル。

はぁ。

久しぶりにみて呆れたと言うか。

HSPという言葉で、繊細さんだけでなく、非繊細さんってのを見かけて、アチャーしました。

繊細さなんて、1か0かではなくグラデーションです。

最近だと言われる様になった、多様性

この多様性って言葉は、みんな違ってみんな良いみたいに、それぞれ違いはあるけど、それは悪い事じゃないんですよみたいな感じにもなってきてる中に含まれるもので。

なんで、こう、現実として繋げて物を見るのに、有効利用できないんですか?

って、嫌でもいいたくなってしまいます。

ホントやれやれですよ。


何度でも言いますよ

1か0かみたいな話じゃないですから、HSPって。

感受性っていう、人が色んな物から感じ取る、受け取るみたいな部分の話で、個人差は絶対に出てくる部分の話しです。

なので、グラデーションと同じ様に、程度の差の分布もみられるものです。

HSPか?非HSPか?なんてものじゃないです。

というか、そういう表現する人って、現実見えてないって程に感じ取れてない人だとも、個人的には言えますよ。

それ程に感じ取ってるというか。

1歳時点で言葉や概念が理解なんて出来るはずないのに、理解出来てるだけでなく、言わずとも察してるっていう行動してみせてたんですよ。

日常的にそうあるようになっただけでなく、甘えたい盛りだろうハズなのに甘えてくるどころかそういう声かけをしても「一人で良いから休んでて」と言わんばかりの態度を取ってたそうです

母が弟を妊娠してたので、ね。

そういう行動をとり始めたのが、弟の妊娠が発覚した時点からだったそうで、相当に将来を危ぶんだけど、見誤った、油断したって感じでね。

感受性としての感じ取りって、感情だけでなく、世の中の道理や概念、常識と照らし合わせて突きつけても、全く通らずに跳ね返る事って多いんですよ。ザラすぎてもう、何とも言えない程です。

優しさとか、配慮とか、協力とか、思いやりとか、分担とか、その他色々幼い頃から一貫して通った試しがないんですよ。

なので、隠すようにしたってわけで。

で、その隠す行為すらも、母がガンで亡くなる直前まで「そういうタイプだと分かってたのに油断してしまった」と言わせるほどに隠し通せてたって感じでね。

母って、私にとっては一番の理解者でしたし。それでも理解が及ばない部分があるからって隠し続けてたんですよね。小出しにしながら。

その小出しすら、気付けないレベル。

周囲なんかは、真面目だ、気を遣いすぎだ、気にし過ぎだと、いくら言葉に置き換えて、一般的な概念も使って説明しても、自分の基準での塗り替えが発生するので、伝わらなくなるって言うね。

うん。

まぁ、こういう話をしても、無駄なんだろうなぁとは思わなくもないですが。

とはいえ、流石にもう無駄とかそういう話ではなく、感じとり過ぎる人の実態を示すしかないなっていう感じですかね。

なので、何度でも異は唱えますよっていう所です。


余りに違い過ぎるので

まぁ、少なからず触れた人なら、環境感受性という言葉に行きついたり、そこから環境による影響もあるというのは行き着くかと思います。

が。

環境って、何を想像してますか?

という、アプローチをしつつ、私個人としては置かれたその場に限らず、現実っていう物が既に環境ってレベルだったりします。

なので、幼い頃から、テレビだろうが、本だろうが違和感を感じ取ったら、何故こうなってるのか?もっとこうあるのではないのか?というのを、親に訊ねてました。

まぁ、感じとり方が違い過ぎるので、答えられないんですよ。なので、大人になったら分かるよみたいに濁されるんですが、「あ、解んないんだ、だから誤魔化されたんだ、これ以上は聞けないなぁ」って感じで、濁された理由みたいなのもサックリ感じ取ってしまうんですね。

それが当たり前だったし、自己暗示かけて抑え込んでた部分でもあるしで、ホント最近になってようやく受け入れたと言うか。

それなりの受け入れは出来てた物の、それなり程度だったので、どうしても自分自身の中に違和感や葛藤が発生する。こういう部分も、精神的な病みの一部だったりします。

また、成長してからは、相談上手って事で色んな相談に乗ったりしてましたが、それはそれで「何故そんなに上手に相談に乗れるのか?」が解決した側からは不思議だったようで、色々聞かれましたが、結果としては自然レベルでの受容と傾聴っていう、カウンセリングでの手法をやってたというか。

それなので、カウンセラーになった方が良いよ!とかも何度か言われましたが、私には無理ゲだと思って道は変えませんでした。

だってその、個人差があるという事から逆転の発想を用いると、私にとっては相談に乗るうえでの受容と傾聴なんて、やって当たり前、というか聞かれないと気づけない程に自然とやってる事だったのでね。

そんな、当たり前の事が仕事に出来るはずがないって感じで。自分に対して評価が低いとか、厳しいとかも言われましたけど、仕方ないのよ。

個人差があるという部分から、その差を差し引いて言う所の、個人の普通、当たり前というレベルでの行動なんですもん。

それをまた逆算するかのように、個人差という言葉を当てはめると、周囲が言う所の真面目過ぎ、気を遣いすぎ、気を配り過ぎ、気にしすぎetcと言われる事になるっていう感じです。

なのでねー?

敏感だろうが、繊細だろうが、生きづらいだろうが、他者と比較したり、突き詰めたりしてるの?

そういう表現してる人が良く言う生きづらさなんて、私からすればその辺の人と全く同じレベルなんですよ。

なので、その程度なら言うほどでもないし、日常生活の中で消化できる程度ってね。

高いにしろ、過ぎるにしろ、個人的には関係ないというか、嫌でも感じ取ってしまう物だし、感じとれる範囲も広すぎててぶっ飛んでるから、高いだ低いだみたいな言われって微妙なんですよね。

だってその、そういう表現したら、自分に使いたい!当てはめたい!って、大したレベルじゃない人達が群がってくるってのを何度となく見て来てて。

だからこそ、人の世に嫌気もさしてるって感じなんですよ。

兎に角良いも悪いも、ポジティブもネガティブも、関係なく現実から突きつけられるかのように感じ取って気づいてしまうし、かといって、表に出したところで問題も発生するから、昼行灯決め込んでダラっと過ごしたいんですよ。

それなのに、よく分かってない人って、いつの時代もやらかしてくれるし、感受性ってなると、生まれ持ってアレコレ経験しててメンタル病んでる要因にもなってるので、好き勝手土足で踏み荒らすのはいただけないから、噛みつくしかない。

窮鼠猫を噛む、そういう状態とも言えるんですよね。


何をどう言ったところで

自分自身にも不手際はあります。

辛いだ苦しいだなんてのも、誰かに受け止めてもらうのも大事ですが、そればかりじゃ解決しないんですよ。

絶対に、自分でむきあわなきゃ行けない部分ってあります。

病んでて、起き上がれないような状態になる=気持ちや心で動かそうにも、体って言う物理部分が拒否するっていうレベルだけど、そう思いますよ。

こういう状態になってるのは、確かに環境要因の部分もあるし、そこを取り上げれば、幼い頃から感受性が高すぎるだけでなく、そうあるからこそ精神的虐待という状態になり、いまだ走馬灯が駆け巡るかのように日常的に発生するトラウマをかかえました。

でーもー。

そうはいっても、向き合って消化するのは、最終的には自分なんです。なので、不満や愚痴が出たとしても、誰かのせいや誰かの責任にするばかりでなく、立ち向かえなかった自分の弱さとして受け入れなきゃいけない部分もある。

何が良い悪い、何が正しい間違いじゃないんです。

周囲や環境が何とかしなきゃいけない部分がある分、自分自身にもそれは必ずあるっていう、公平性みたいな話なんですよ。

だから、辛かろうが苦しかろうが、迂闊な程に生きづらいなんて言わない。

そうしないと、感受性が高すぎると、相手が感情的になる事での負担の方が大きいんですよ。

臨床心理士の先生によるカウンセリングでも、

自分だけでなく、他者の分を取り込みすぎてて、それすらも自分の事の様に消化してる様があるって言われました。

でも、それがデフォルトなんですよ。無意識とか、自然でやってる話なので、言われると意識出来るけど、言われなきゃ意識できないレベルでの行動ですって返して、絶句されましたからね。

そんな感じでね、怒ってる、怒られてるが不快ってだけでなく、我関せずで過ごしたいのに、勝手に入り込んできて勝手に脳が処理してくれるもんだから、自分+αの感情やらが流れ込んで来てて、ホント苦しいんですよ。

こういう状態でも、眩暈とか起こしてますからね。

なので、自分が辛いか辛くないか?以上に、現実として処理した方が良い物は何か?ってなってしまうんですよ。

それが多少仕事が増えるという、面倒の抱え込みであっても、それ以上に無駄に近くで騒がれるのがアウトなんですよ。感情が空気に作用して、空気が歪んでるとか淀んでるみたいな感じ取りすらしてしまうレベルなので。

そういうイメージが勝手に頭の中に発生して、ほらほら、早く助け舟だしてサポートしてやれみたいに、訴えてくるっていうかね。

なので、真面目とか気を遣ってるじゃない、という話になる、と。

自分にとっての苦痛を取り除くため、です。そこに、他者が原因を作ってたり、そこに自身の感情を当てはめて良い悪い言ったところで、変わらない他者しかいないんです。

じゃあどうするか?

自分が動く、自分が変わるしかないでしょ?ってね。

いくら人間としての概念を当てはめても、現実って残酷なんですよ。

環境=その現実の残酷さに幼い頃から向き合って来た。

だからこそ、病んでしまっただけでなく、人間に対して言葉を捏ねて概念作って、それを扱う割に、自分の尻を拭わない様にしようとする人が多すぎて呆れてしまうし、それでも生きては行くけど半ば諦めも持って現実とも向き合ってくだけ、という話です。

はぁー。


ぶっ飛び過ぎてておかしい話

半ば諦めてる=一線を引いて、一歩下がった位置に立ってる。

そういう部分もなくもないです。

なので、こう、ね?

人の世の外に立ってしまってるなぁ、って嫌でも感じ取って実感する事って多いんですよ。

色々、理由や経験も交えて、だからこそ真面目過ぎる他色々言われると話しましたが、突き詰めるとそんな感じです。

もう、言葉にしても何しても、概念の扱いすらがシビアとか厳密だからなのか、やりすぎって言われてしまう。でも、それが私にとっては当たり前なので、本当は周囲がやらなさすぎであって、私が真面目なんじゃなくて、周囲が不真面目過ぎってなるんですよ。

立場が変わると意見が逆転しますのでね。

でも、私の言い分って少数派というか、1対他みたいな経験も多いから、多数決でマジョリティな世の中とは合わないんですよ。

だから言わずに引っ込める。

なんていうか、感受性としての感じ取りが行き過ぎると、やはりそこは出る杭になるので、出ない様に自分で調整をするという事すら、自然とか当たり前でやる感じです。

だからこそ、自分基準のいきづらさとか、へそで茶を沸かすようなお話ですよ?って冷たく言い放つ事も出来るんですね。

現実に対して深い所で向き合う為には、客観視だけでなく、その為の冷静さみたいなのも持ち合わせないと、途端に自分の感情の波にのまれてしまいますから。

こんな感じでね、違い過ぎるんですよ。

で、そこで私が個人差って言ってるから、及ばないにしてもみたいな話をしたところで、私からすれば、

いやその、もしかしたら私が底辺かもしれないので、それは通用しないですよ?

って話にもなります。

というのも、そういう感受性の部分って目に見えないから比較しようにも出来ないですし、会話して、言葉を交わして、面と向き合って色々感じ取れる状態にして、感受性が高い人全員と向き合ったわけでもないので、上がいると考えた方が、自分にとっての防御がしやすくなるんですよ。

感情的にならずに済むので。

そういう部分から、ぶっ飛んでるんだろうなぁって自分でそれなりの認識はしつつも、まだ上が居るかもしれないって自分を戒めるというか、自分で律する、制御するんですね。

そうしないと、跳ね返りますから。

自分に厳しいように見えてしまうのも、人の振り見て我が振り直せをやってるだけであって、感情から至らなさを見せる人から良くも悪くも学んだうえで、お前は修行僧か?とか言われなくもない程に、自分を厳しく戒めるんですよ。

こういうのも、あくまで文章にしようとしてるから、言葉がホイホイ出てくるだけで、普段は意識しないレベルでやってるんですね。

だから、違い過ぎるって言われるんです。

という感じでね?

くどいようだけど、自分がそういう感受性持ってて、把握して扱ったり、よく分からない様な幼い頃から向き合ってたからこそ、経験が蓄積されてて、自分自身の言葉でちゃんと説明できるんですよ。

だから、誰かが唱えた、よくわかんない概念なんか、不要。

そんな物に頼ってる様なら、まだまだ甘いですよ。

そう、言わざるを得ないんですよね。


あとがき

自分で言うのもなんだけど、ホントこう自分の中の深い部分を出せば出す程、あたしゃ人間なのかい?て嫌でも自分で感じてしまう事ってあります。

そのせいか、小学校高学年時点で、お前凄いな、人生悟ってんじゃね?みたいに何度か言われてまして。

社会人になってからも、10や20も年齢が離れてる人から、年寄臭い、真面目過ぎ、ってね。突かれたりからかわれたりしたもんです。

年寄臭いってのも、経験が過ぎてるって部分で、どうしても突き詰めた口うるささみたいなのがあるので、言われてしまったって感じで。

んで。

繊細って、弱弱しさとか脆さみたいな部分も含んでるのですが、実際にそうあるタイプの人って、世の中がどうなろうが、流行りがどうあろうが、出さない人の方が多いと思いますよ。

だって、日常的に周囲から責められなくもない訳で、自分の弱さを表にだす事は、他者を怒らせたり感情的にさせてしまうので、うっかり出せない部分なんですね。

それだけでなく、そうしてしまう事で、自身の傷つきやすさとの比較から、余計な配慮をするというか、自分が傷ついてても、これをやったら他人を傷つけるという感じで、それすらも恐れたり、躊躇ったりするもんです。

だからこそ、繊細、という話でね。

感受性が過ぎる=感じ取り過ぎるってのは、そういう自分以外の他者の事すら、イメージが自然と湧くほどに、手に取るようにわかるみたいな部分があります。

言葉、周囲の反応、世の中の反応、個人的には目に映れば、耳に聞こえれば、宇宙や現実すらも環境なので、良いも悪いも、役に立たない無駄レベルな部分も感じ取ってしまうんですよ。

それを自然とやってしまうから、カウンセリングで現実を見つめすぎですとか言われたんでしょうけど、どうしようもない程に自然と感じ取りますし、無かったことにしようとするほど、強い葛藤が生まれて自分が苦しむ事になる。

なので、それも現実なんだなぁ、と受け流す方が楽。なので、認知行動療法も持ちかけられましたが、しない方が良いですねってあっさりひっくり返ったりもしました。

まぁ、その、ね。

自分がどの程度か分からないですが、繊細さんとか生きづらいとか、その出所や出所が示す意味、状態、を知らずにいて、都合の良いように扱うなんてのは、もう見るからに明らかレベルでわかるので、何がどうあれ違和感を感じた時点で、意見していこうかなぁ、と思います。

生きづらいってのもさ。

それが、現実として何が発生してるから、みたいに理由とか原因みたいなのもすぐにわかりますしね。

ということで。


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