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信じられないという理由

ということで、先日上げた物の続きです。

おかしい、ありえない、にわかに信じがたい。

それもそのはず。
先日も書きましたが、時折こう、ね?

”そうある自分自身すら、客観視が働くことで、信じられない”

そうなんですよ。
当人すらも、信じられないどころか、説明してる間に凄くこう、気分が悪いというか。
気持ち悪くなる、ということすらあるほどだったりします。

でもねぇ。
おかしいけど、結局は自分と向き合ったり、自分に問いかけたりすると。
それは受け入れなきゃいけないこと、にもなってしまう。

自分の事だから、自分でちゃんと処理する。
とはいえ、やっぱりこう、誰かに受け止めてほしいわけですが。
幼い頃時点で親の受容がなかったり、数十年経過してガンの末期になった母が人払いをしてから謝罪するという結果にも至ったほど。

なので言うんですよ。
その程度の生きづらさなんざ、なまぬるい、ってね。


評価だ、なんだの話。

良い方にしても、ね。
「他の子と違う、みんなと違う」

評価するのは良いけど、そこだけ?という感じでもありました。

それどころか。

学生時代は、主に美術という科目。
絵を書いたり、作品を作ったりすると、異様に細かい=学生かつ授業という範囲の中でのリアルさが抜き出てる。

そもそも、見え方が違ってる
見えてる色、グラデーションの範囲すら、周囲と違いすぎてて細部まで見て取れてるだけでなく、表現すらしてしまう。

見えない視界の外や背後に気づくだけでなく、見える部分になると、これまた余りにもおかしい、そんな所まで見えない、表現もできない。

それに対して、描いた当人である私は、
「見えたものを、まんま表現しただけ。何の工夫も苦労もしてない」

ケロっとこういうことを言うので、一瞬ではあっても、周囲はちょっとこう怯えるというか。
なんだコイツ?みたいな反応を見せてくれてました。

光を感じ取りやすければ、そういう陰影や、色の微妙な差、グラデーションの部分も見えると思いますよ?

目に見えるものが立体的にみえるのは、そういう光と色の影響なので。

ただ、こういう部分も「そういうタイプは滅多にいないから」

そういう理由付けを元に、描いてる当人に見えてるからこそ表現出来てるという部分を無視して、「明らかに周囲と比較したら出来上がりが違うから」という評価しかされず。

ぽかーん。

なんですよね。

正直、評価が適正にできる人が居ないことには、能力が有っても、伸ばせないのも人間だし、個人としては何度も同じ状況になり、同じ担当教師が評価してるのに、

何度となく同じことの繰り返しばかりなので、つまらなくなる。

虚無感を持つようになり、やる気が失せてしまうという、ね。

こういう経験も、馬鹿馬鹿しい・・・と言ってしまうほどに経験してるので。

「評価って、すれば良いのだけでなく、適正な評価が出来ないとダメ」
と言うんですよ。

凄いとか、能力が高いとかではなく。
絵であるなら、どこのどういう部分。
個人の経験であれば、描き方、色の塗り方という部分に対し、どういう部分の、どんな描かれ方が、周囲と違っててリアリティがある、というような、客観的な評価ができないといけないと思います。

評価がちゃんと出来ないと、評価する側が認めたくないかのように目を背けてるとか、ね。
そういう無意識だったり、多分恐らくも感じ取ってしまいますから。

しかも、幼い頃から当たり前なので、「またこれか」と私は受け入れる=受け止めれるので、評価されようがされなかろうが関係ないし、そもそも評価ってする人次第で全然かわるから。

評価されることにすら、興味を無くしてしまってもいます。

また、評価という部分では。

認められてる人、肩書がある人、能力が高い人という、ね。
一目置かれる人がやると、それに流される日本の在りようすらも、馬鹿馬鹿しい。

感情に流されるから、痛い目見るというのに、ねぇ。
昭和の頃からそれ繰り返してるので、社会や世の中が良くなるわけないのよ。


正直扱いづらい

自分で言うのも何だけど。
そういうタイプであり、それと向き合って生きて来たからこそ言います。

正直、扱いづらさという部分も強いと思います。

評価にしたってその場で即気付いて、突きますからね。
「どこをどう評価してるんですか?」
とか。

「皆と違うじゃなくて、作品のどこが評価できるんよ?皆と違うなんてのは先生の感想でしょ?評価じゃない。」

実際には言わないのですが、見た目は、ね。
言わんばかりの態度にもなってたと思います。
まぁ、親ですら受け止めきれず、何がどうあって、どうなってて、私がそれを訴えてるのか?という触れ方をされたことが、幼い頃からないくらいですから。

また、こういう部分も、ね。

そういう態度を取ってるのも、幼い頃からそういう扱いしかされてこなかったので、評価をしたところで、一切響かないタイプという深い部分があるのは、文章だからこそわかるとは思います。

情報どころか、人間、個人なんてのは、ほんとそれ。
「上辺だけ見てたら、必ず失敗する」

個人としては、周囲がそうやって上辺だけしかみないからこそ、自身は真逆と言わんばかりに深い所を見るようになってたので。

幼い頃からの積み重ねで、自然とそういう部分が育ってしまった、と言うのは否めません。
でも、だからこそ、扱いづらいし厄介なんですよ、と。
自分で自己評価もするわけです。

まぁ、個人としては「そういう環境に置かれたがゆえ」と言う部分は否めないです。

とはいえ、ね。
上辺だけ見て、それ以外は臭いものに蓋。
これは、今のほうが悪化してますから。

そういう事をしてるようだと、何度も繰り返してる=度が過ぎてると、グサっと一瞬で指すどころか。
普段から、そういう素振りは見せてないだけで、気付いてる分。
それこそ、えぐるかの様に指摘しかねないです。

とはいえ、5人に1人というのも、実際はどうあれ、それ程に少ないという表現としてはアリと思いもするので。

そうそう、見かけないとは思いますけどね。

でも。

普段おとなしい、聞き分けが良い。
そう見えて、そうしておかないと「貴方が怒るでしょ?それが面倒だから、希望に沿ってるだけ」という感じでもあるので。

下手すると、大人しくて真面目だったのに・・・。
とんでもない凶行、大事件をやりかねないんですよ。

普段は、ね。
人間誰しも違うだけでなく、違いがあるから、仕方がない部分はある。
そうやって、見ないように意識してるだけで、ちゃんと見てとってますから。

人の負や業を減らさないことには、そういうタイプに育ってしまうのは否めない、とも思いますよ。

だからこう、ね。

親の思いどおりになってるとか、役にたたねーぞ。
そう言うんですよ。

くどいですけど、ね。
亡くなり際とはいえ、母が思いしって後悔したレベル=親以上、そして親の見た目や想像を遥かに超えてたわけですから。
それこそもう、1歳の時点でそれが分かるし、疑問を持つほどに出してたくらいです。

HSCって言いつつ、言葉は良いとしても
親として子供の実際、実態を知ろうとしないまま、親の思い通り、想像どおりになってるだなんて。

役に立たないどころか、寧ろ誤解を生む話にもなってしまうので。

いい加減にしてくんない?
と、言ってしまうんですよ。


だからこそ難しい

どうにもこうにも、話しを聞いた所で。
「にわかに信じがたい」
それこそ、そうある本人ですら、説明しながら実感してるくらいなので。

だからこそ、診断基準がない=定め様にも、どこに置所を置くかが広すぎて決められない

現状でもある程度はできてると思いますが、個人から言わせてもらえば。
「研究の中で対象になった人のものでしかないですよね?」
です。
対象にならなかった人、漏れてる人もかならずいるし、探そうにも判別が難しいので、見分ける、見つけるのも相当に苦労する。

そういうカテゴリになってしまってると思います。

それこそ、精神疾患で基準があるものより、更に深いところ。
性格なのか、思考なのか、心理なのか。
そこに、どうしても神経や脳も関わってくる事も必至。

でも、現状では、その判別すらままならないmと思います。
個人的にですけどね。

自分の中で追うだけでも、奈落の底まで続いてんじゃないの?という大穴にぶち当たる事もあります。

というのも、体として感じ取る部分も関わるんですよね。
視力や聴力という、一定の基準をもって計る数値がありますが、その結果とは違う出方をします

自分より目がいい人なのに、同じ様に色のグラデーションを風景から見取る事ができない。
同程度の聴力なのに、一瞬の小さい音が聞こえてなければ、音での状況判断ができない。

個人としての状況、経験をあれこれ、書いてますが。

説明ができる所を取り上げて説明してると、どうしても分断される=そこが個別にそうあるになってしまう、という部分も否めないです。

感じ取れないから分からない。
だから説明をするも、わかりやすくすると細かくなってしまう。

それだけでなく、感じ取れないから”繋げられない”

うん。

そうある側からすると、全部繋がってるんですよ。
感覚として、感じ取ってると言う形で。

こういう部分もあって、「感覚処理感受性」ってよく名付けたなぁと、感心や感動もします。

なのでこう、まだまだ、研究していかなきゃい行けない部分が、「多すぎる概念」だと思いますよ。

それなのに、世の中に引っ張り出しただけでなく、本質とは違う言葉で喧伝して、売れればいいみたいな売り物にするだなんて、ねぇ。

こんなだから、日本は研究という分野が流行らないし、遅れもする。
ブームなんて、その一因だとおもいます。


特徴なんて、あってないようなもの。

それこそ、環境感受性という言葉。

環境からの影響を受ける、その受けやすさ。
そういう話になりますかね。

皆それぞれ、違った環境で生活してるからこそ。
そして、同じ環境で過ごしてる家族ですら違うからこそ。

影響の受け方次第で、必ず凹凸してしまうので、特徴はそれを見せた”その人だけの特徴”です。

その人が見せた、”その人特有”という、個人の物なので。
そんなの、あってないようなもの。
自分も同じだなんて、言えるものじゃないです。

というか、個人としては、そう言ってきて「お前のはありえない!」って裏切られたことも何度かあるくらい。

いわゆる普通、一般的の感覚では、はかりきれないものを、持ってるんですよ。

なので、特徴なんかも、あくまで一般的に伝わりそうな無難な内容になってるだけで、その実際は隠されてしまってる

ということも、容易に想像できてしまいます
本当にそうあるものを持ってるのなら。

個人としても、そういう扱いもさんざん受けるだけでなく、自らそういう方向に持っていくこともあります。

気付いたことに対し説明するだけでなく、たしかに状況が一致してた。
不思議だけど凄いね。
そう云う中で、突然1人だけ怒り始めるということも経験してます。

そういうこともあるので、多分、恐らくとか、偶然の一致、たまたまだよ、と。
それ以上深入りさせないように、そういう言葉を使うという側面もあります。

その時、その状況、その場にいる人、ほか色々。

ホント、言い換えるなら”環境に左右されてしまう”

そういう部分なので、特徴が同じとか、ね?

その特徴はあってないようなものです。

というか、同じ環境で過ごしてる家族ですら違うのに。

全くもって違う環境、それも国という伝統や文化という、根底が違う場所、そこで過ごしてる人から得られたかもしれない特徴を、ね?

自分も同じって。

流石にあきれます。


気を配るなんて、当たり前過ぎる話

上でも少し書きましたが。

なんでか、1人だけ突然怒り始める、ということもあります。

そもそも、怒る要素がない状態。
あくまで個人が気付いたこと、気づいて把握したことを、一緒に見聞きしたら、一致してて凄いね、になっただけ。

それなのに怒りだす。

それはなぜなのか?

多分、恐らく。
というか、これは絶対に言わないことにしてますが、
「個人に対する、恐怖や怯え。それを無意識に感じ取っての攻撃が怒りとして出てきてる。」

周りの人間が一切気付いていない。
それに1人だけ気付いてるだけでなく、まるで見てきたかのように、言い当ててしまうなんてのは、ね。

結構、怖いことだと思います。

そういうのを無意識で感じ取ってしまうからか、私の方も、
「多分とか、恐らくだけどね?」
という言葉を使うときは、”おっかなびっくり”という状態にもなってます

個人としては、怒りの感情をぶつけられるのって大方そのケースです。
幼い頃は至らないところは確かにありましたが。
基本「大人しくて真面目」とか、「聞き分けが良い」なんですよ。

良くも悪くも気付きやすいだけでなく、自分の作業に余裕が有るか?無いか?を判断した上で、周囲のフォローに回った場合でも、

「何、余計なことをしてるんだ!お前は!」

と。
え?なんで?という怒られ方をする事もあります。

進捗がはかどらなくてイライラする。
それだけでなく、不満を口に出してしまう人っているじゃないですか。
なので、さり気なく周囲をフォローして、場を整えようとすると・・・。

そうやって怒りをぶつけられてしまう・・・。

こういうときは周囲も困惑してます。
なので、変に怒りっぽい人が、周囲との溝を深めもするし、頻度が多いと嫌でも、イライラしないような環境づくりを自然としてしまうんですよ。

それが「気を遣いすぎ」と。

遣わなきゃ、自分のダメージが大きいどころか、下手すると個人だけキツめにしぼられる事になるから、そうならない対処をしてるだけ。

怒った時に対処するのではなく、イライラすらしないで済むような下地、環境づくりをするという、根本に近い所への対処もしてしまいがちです。

そして、こういうのは「気にし過ぎ」とか言われますけど

相談に乗ったときと同じです。あくまで個人としてですけどね。

多分、恐らくが悪い方で的中してしまう。
そういう事を何度も経験すれば、そうならないように対処するのは当然なんですよ。

どうしてもこう、ね。

感じ取ろうとして感じ取ってるわけじゃない。

どうしても。
何でか不思議と。
嫌でも感じ取ってしまう。

買い物なんかでも、自分が悪いのに、自分の行動の妨げになった人に怒りの視線なげてる人とか気付いちゃうんですよ。

気付きたくないけど、視界に入るだけで、一瞬で判断出来てしまう。

気付きすぎるって、すっごく大変なんですよ?

怒りの感情や、それに伴う言葉や感情での攻撃って、自分に向けられなくても、外側や周囲に相当に漏れて影響をあたえるものです。

そういうものに、当てられてしまうんですよ。
嫌でも。

目に見える。
耳に聞こえる。
それだけで、脳が攻撃してるという判断をしてしまうんです。
自然とね。

人を避けるのはそのためです。

感情が漏れてしまうのは仕方のないことですし、人それぞれ違いがあるので、そういう状況もやむなしです。

でも、それを受けることで、自分の中に不満やイライラが生じて、怒りを漏らしてる人を恨みたくも、悪く思いたくもない。

なので、可能な限り避けはします。

でも、必要であれば、そういう中を移動しますし、行動もします。
仕事や約束事。
こなさなければ自分への信頼を裏切る事になるほうが、更に悪手ですから。

こんな感じで、ね?

表面で見ただけじゃ全然わからない部分。

聞いた所で、同じものを持ってなければ、到底分かり得ない部分。

そういう物も持ってしまうことになるし、だからこそ。

気付きやすい、感じ取りやすいということは諸刃の剣。
自分がうまく向き合わないと、自分が自分を傷つける原因、要因にすらなる。

そういう事を言うんですよ。

そして、ね。

気を配るなんてのは、そういう部分から当たり前なんです。

だって、ねぇ?

自分を守れる最後の砦は、自分自身なのですから。

誰かに守ってもらおう。
配慮をしてもらおうなんてのは。

ただの甘えでしかない。

です。

あとがき

まぁ、にわかに信じがたい、信じられない話と言うかたちで。
深い所もそこそこ出してみました。

ほんとね?

生きづらい、では、済まされないですから。

集団生活って、自分以外の誰か、それも大勢と過ごすような生活です。
その中には様々な人がいる

感じ取りやすいなら、自分の苦手、不得手に気づいて、対処するのが当たり前ですよ?

それでも、全部は防ぎきれません。

そもそもが過ぎてるので、周囲からすれば異と言える行動を取ってしまいます。

でも、それを配慮とか気遣いとかも、し過ぎって、ねぇ?

気付いてしまうだけでなく、自然と動いてしまうだけ。

これに尽きるわけなのですが、これだと周囲や他人が納得しないんですよ。

何かしら言語化して、納得する理由をつけてあげないことには、おかしいだ、ありえないだ、そんなはずはないだ、と。

否定の言葉と、感情をぶつけられるだけになるのが、しんどいし、面倒だから。
そういう人たちのために、言語化して「理由付けをしてるだけ」です。

当人としては、気づく=目や耳、鼻、その他人の体の感覚として感じ取るからこそ、それが脳に信号として送られ、脳が処理して結果や判断が生じる。

無意識だろうが、なんだろうが。

ボールが飛んできて自分に当たりそう、そういうのは、一瞬で避けたり、キャッチしたりと対処するわけです。

そういうのと同じなんですよ。

でもそれが、五感による異常や危険の察知、環境を整える必要性、人としての感情への対処、ほか色々。

多種多様、様々に及んでしまうだけでなく、周囲が一切気付けないレベルの僅かなものにすら反応してしまうだけ、です。

それが視力や聴力だったり。
知能というような、知能検査で計測出来るものだったり。
その他、現状では一般的になってる物とは違うもの。
計ることが出来ない部分。

今まで見向きされず、性格だ、価値観だとして、抑え込まれるばかりだった部分にメスが入ったというだけであって。

基準なんて、これから作るようなものなのに、一般的認知させるなんて、土台無理な話ですよ。

原子や分子だって、今では当たり前ですが。
それ以前は「そんな事があるはずない!」だったのを、研究していったら「あるじゃないか!」になり。

それが幅広く浸透したから、あるのが当たり前という話になってるだけ。

今はまだ、そういう分子や原子という物が証明されてないので、真偽不明であるからこそ、あるだないだ、という話になってしまう頃と同じ状態なんですよ。

だからこそ。

原子や分子があると言える判断材料がない=HSPには診断基準がない

こういう事です。

また、そういう意味では、現状でのタイプ分けは無意味です。

分子や原子がないのに、これは酸素、あれは炭素と言ってるのと同じで、研究が進んで解明されたら、ひっくり返ったり、間違いだったとなるだけでなく。

今となっては、酸素はこうある、と明確になってるからこそ、語れるものというように

明確な基準ができれば、以降の話はそれに沿ったものになる。

そういうものですよ。

なんなのこれ。

流石に学生でも、ちゃんと勉強してれば、応用してすぐ気づけると思いますよ?

原子や分子に限らず。

冥王星の扱いの変化や、歴史における認識の変化、その他様々に。
今までには無かった技術も新しく生まれ、それが生まれることで可能になり、その先々での変化は想像できないものです。

DNA鑑定とかも、時間の経過と共に精度が上がってるんですよ。

精度が低かった頃は、それが元で冤罪になった、というような事も稀にあるのが、現実です。

ウィルスだって、変異だなんだ騒いで、当初とは違うウィルスが話題ですよ。

そういう現実があるのに、なんでこうなってしまうのか。

人間って不思議ですねぇ。
と、締めくくりつつ、あとがきもいい加減切り上げようと思います。

あへぇ。


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