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何だか書いてたら内容が...ズレた?

HSPという言葉について、なんやかんや言ってはいますが、基本的な部分として

これは言うだけ無駄なんじゃないか?

という部分は常に抱えてたりもします。

まぁ、自分が主張しておきたいという側面から考えると、無駄とかそういう話や問題ではないんですけどね。

ただ、オタクが蔑まれてた時代も知ってるどころか、その蔑みを向けられ差別やイジメを食らう側でもあったので、何をどう言ったところで人様は自分都合でごちゃごちゃ言うだけで、話し合いしてくれないんだよなぁってのは嫌でも解ってるという側面もあります。

なので、ジレンマもあるし、それ故のストレスなんかもあります。

まぁ、それでも流石に、感受性の部分は個人として色々ありすぎるので、こういうのもなんですが「その程度」レベルで分かった風に言うのはやめてくんない?って感じです。

1歳時点で見せた異質さを把握しつつも、判断誤って死の間際に後悔とか謝罪とかしたくらいですし、うちの母なんて。

ということで、ここですこし分けましょうかね。


母の癌と闘病生活当時の私

死を覚悟した母が、「自分が油断したせいで、あんたを苦しませてしまった」、「親として守ってたつもりだったけど、守られてたのは私の方だった」って謝罪してきたんですよ。

その当時の私って、「何がどうあれお別れの時だから、その日までどうやって日常を提供できるか?」が、母に対する行動原理でしたし、それ故に気遣いとか配慮を超えたというかそういう接し方をしてるように見えたのかも知れません。

私自身としても死生観からなのかなぁ。死に対する恐怖と対峙の難しさを常々考えてるタイプでもあったので、そこを打破したいというのもありましたし。


心配という言葉を使いつつも悲観してしまうせいか、自分のしてあげたいことが前に出すぎて患者が疎かになる周囲。

闘病してる母本人が何をしてほしいのか?何を望んでるのか?どうしたら出来る範囲での楽を提供できるか?を感じたり考えたりしながら動く私。


こんな感じで、自分だけがちょっと違う行動をしてた状態でした。


まぁ、元々痛覚も感じやすいというか、色々情報を送ってくるので痛みに対しても敏感な状態ってあるんですよね。

なので、受け止められるキャパシティが小さかった幼少期はすぐに溢れてしまう事で泣いてたのですが、それ対し理由も話も聞かずに一方的に怒られ、怒鳴られたりも多く経験してます。

そして、ここでも男らしくがついてまわって。

性別についても、何故そういう事をいうのか?という受け止めがされないまま、「普通じゃないから」という理由だけで、一方的に怒られ怒鳴られしてましたし。

なんでこの子はいつもこうなるの!!

いや、話聞いてくれないじゃんって幼少の頃からこっそり思ってましたけど、ね。

まぁ、そういう痛みに対する敏感さもあったが故に、度を越えた痛みに対する想像力も働かせることが出来てたという一面もありますし、片頭痛や過敏性腸症候群の下痢型とかで、痛みに耐えるのに疲れ果てて吐いてる途中で気を失って眠るとか、顔面蒼白になるくらいの痛みに耐えながら日常を過ごすとかも当たり前だったので、想像するにたやすかったという部分もあります。

痛みが神経通って伝わる部分も感じ取れると思いますが、すっごい辛いんですよ。痛みその物だけでなく、そういう伝わり方は別として上乗せになってしまうので。

うん。

まぁ、こういう部分からも「お前は、あなたは、感受性が高いんだね」とか言われます。

ただこう、それって特別じゃないんですよ、という話も少し。


意外と出来てしまうもの

こういうのは感じ取れないから解らないって言うのも分かるんですけどねぇ。

冷静になれる状態の時に、

「こういう風に肺がぐしゃっと潰されるとしたらどうする?」

って、目の前で握りつぶすように手をうごかすだけで、うっってなる人って結構多いんですよ。そして、

「考えただけで寒気がする...」

「吐き気がしそうなくらいに気持ち悪い...」

「そんな痛みとか、耐えられる気がしない」

みたいに、想像できてしまうんですよ、不思議と。

解らない人には、なんならコンビニでパックの飲み物買って、飲み終わったら潰してみせようか?って言うと、ノーって返ってくる事も殆どです。

こんな感じでね、冷静な時は出来るんですよ。想像する事なんて。


それが何故できなくなるか?

看病って患者のためにする物なのに、苦しんでる姿があるからとは言え「自分が何かをしてあげたい」が優先される程に、冷静さを欠いてしまうから、なんですよ。

というのも、周囲がそういう行動しか出来ないし、軽く注意というかアドバイスというかをしてみても、どうしても自分がこうしてあげたいを控えないんですよ。

厳しい言い方をすれば、話を聞いてないんですね。

言葉は耳に入ってるけど、それなら何をどすればいいのか?を考えられない=言葉の意味をちゃんと受け止めようとしてないんです。

理解するしないじゃなくて、理解する前段階として受け止めてないから理解に繋がらない。

情けは人の為ならず、というのは、そうなってはいけないという戒めの意味もあるんじゃないかなぁ?ってこういう経験をするたびに思います。

うん。

まぁその、冷静さを維持するのって難しいですし、言ってる自身としても感情的になり過ぎたって反省する事も多いんですけどね。


そしてこれを掘り下げる

そう、掘り下げるわけなんですよ。

そしてこの掘り下げるというのは、追及する、分析する、情報を仕入れる、可能性を追う、個人的にはそういう意味合いだったりもします、ということで。


長々と、母の癌とその闘病生活の経験を書きましたが、その当時やそれからしばらくは、全然意に介さずというか、気付けてなかった内容でもあります。

それに対して、どうしても引っかかってしまう?何故こうなってしまうのか、と嫌でも考えてしまう。そんな感じで、考えたいから、気にしてるから考え込むのではなく、否応なしに状況整理をしようとしてしまう。

そんな感じだったりします。


で、上でした闘病生活の話って、経験ある人にしかわからない、関係がないという話では無いんですよね。

配慮や気遣い。

症状やその辛さ苦しみ。

細かい観点からの繋がりから、点と点を結ぶように無関係の人の話でもあっても繋げられる事が出来るという見方というか、考え方をしてたりします。

そうある結果、相談なんかを受けた時に類似点がある事から、自然と記憶の箱から呼び出されて、類似性を検討するだけでなく、更に可能性は無いか?と掘り下げていく事にも繋がるので、相談に上手く乗れるような言動を自然とやって見せてる。

こんな感じで、相談上手という形の言葉で括っても、その理由や根拠なんかは深くて広いような状態なんですよ。あくまで、自分で言うレベルなんですけど。

そして、そういう類似点に気付くのも、何かしらの引っかかりから感じ取るとか、言葉から感じ取るとか、相手の雰囲気や口調から感じ取るとか。

感じとる、という一言ですらすごく幅広いんですよ。そして、自分の中で発生した引っかかりや閃きだけでなく、大して意識して観察してるわけでもないのに、相手の状況からも発生するという感じです。

下手すると、相談に乗ってる場所次第では、無関係の周囲に居る人が発した言葉が切っ掛けになって、あ!!って事もあるあるな話なんですね。

そして、これをまとめていうと、自分や他者という人間だけでなく、その場や環境からも色々感じ取ってしまってるという話になります。

無関係の他者からの感じ取りって、感じとった相手は確かに人なのですが、相談に乗ってるという状況は無関係なので、どちらかというと背景とか環境って事になるんですよ。

同じ場所という環境にいたからこそ、その他者から感じ取れた、みたいな話です。

そして、自分では整理出来てるので、何でそんなに気づくの?分かるの?と問われて教えたり、話したりすると、

いや、そんなのあり得ないわ...

流石にそれはおかしくね?

お前どうなってんの?変じゃない?

みたいに、言われてしまう事になるんですよね。

いや、実際にそういう言動してるのはわかってるけど、そんなカラクリがあるとか、正直言って信じがたいわ...

こうなるんですよ。


まとめ

いやー、最初は別な内容を書こうとしてたのですが。

自分で意識して書いてるというのはちゃんとあるのですが、こういう記事を書きながらも別の思考が自動的に回る事で、気付くというか、感じとってしまうと言うか、意識とは別の方向に勝手に軌道修正されてくような...

自分でもよくわからない状態になってしまいました。

まぁ、その流石にこれは言うべきではないのでは?って思い返して、書いては消し、消しては書きもしてたんですけどね。

タイトルに沿って書いてたはずなのに、不思議と思わぬ方向へ向かったので、タイトルも意味不明?な状態にかえました、これを書いてるタイミングで。


まぁ、その、ね。

人として生活する中で、人だけにフォーカスしないんですよ。

自然もそうだし、植物や人間以外の動物なんかもそうだし、参考に出来るとか類似するとか、そういう点って夜空の星の様に点在してる物で、それを現実の中で繋げていくと、星座を描くように形が出来上がって、目に見えてない部分が浮き上がってくるというか。

あくまで可能性の域は出ないっていう、過信しないための自制も必要になりますが、そうやって見ていくと色々気づけますし、過去とはいえ歴史上にあった事象を想像する事で、そこから感じ取るというのも出来ると思います。

感受性が高いっていうなら。

ホントこう、感じとるアンテナが立体的というか、現実で作った平面だけでなく、可能性で考えられる未来だったり、実際に発生した過去だったりにも伸びて、自然と色々感じ取ると言うか、探ると言うか。

中道という言葉ではないですが、これはこうって決めつけるのではなく、見えない部分は無いか?見逃してる部分は無いか?を追い求めていくって言うんですかね。

そして、そうある様が感受性が高いって言われる部分の元になってたりもします、個人的に。

更に言えば、あくまで現状がそうあるだけで、幼少から色々経験する中で変化というのも色々ありましたので、この先も変わっていくんじゃないかな?って思います。

私はHSPだから。

そう気づいたなら、向き合って伸ばしていけば、今ある生きづらさを自分で乗り越えられるだけでなく、これから先の人生でその乗り越えが経験として活きるようになるんですよ。

だからこう、型にハメない方が良いよって話で。

ハメてしまったら、はみ出る事で広がる事も出来なくないですが、ハマらないで自分で育てて伸ばした方が歪みは少なくなると思います。

生きづらいというのも、HSPになったら解決なんて甘いんですよ。

光や音なんて、自分が何をどうしなくても、通りすがりの誰かや何かしらの物体から嫌でも受けるので、ちょっとしたレベルとはいえ身体的苦痛みたいなのは逃げきれない程に付きまといますよ?

人間関係にしても、嫌でも色んな違いを持った人ばかりが周りにいるのが当たり前なので、関わってはいけない人なんて嫌でも出てきますよ。そして、状況次第では逃れられない事も多々あるので、そういう人とかちあっても上手く付き合う術を持った方が、これから先の苦は少なくなると思います。

ホントこう、ね。

現状の段階でブツ切りにするより、知ったなら上手く向き合い付き合いした方が無難だと思います。

うん。

というか、本当にそうあるなら、イチイチ言われなくても自分で感じ取って、自分なりに気付いてそうなんだけどなぁ。


と、最後にボヤきつつ、今日はこんな感じです。

それではー。

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