呪い研レポート提出【私と呪い】「私たち」という呪いと解呪のための思考
サロンに参加を始めて2回目のレポート提出となる。今回のテーマは現代における「呪い」
ここでの「呪い」の定義は、
「こうあるべき」「こうしなければならない」という固定観念や思い込みに自分の思考や行動が無意識のうちに支配されている状態
とする。
レヴィ=ストロースの『野生の思考』という、学生時代でも読んでなさそうな学問古典をどうにかこうにか読み進め、自分の身辺のことに置き換えながら辿り着いたのは、複数名により構成されるコミュニティ(以下「私たち」)の中で当然とされるルール(以下「私たち」の呪い)から解放(解呪)されるためには、『野生の思考』の中でこだわり抜かれていた分類についての意識が必要であるという考えだ。
儀礼の積み重ねで呪われていく
以前に初めて参加した儀礼研で、
社会で生きていく上で、2人以上で定期的に行う割と大事(と一応思われている)イベントを「儀礼」として考えたが、この「儀礼」を繰り返していくことで、気付かぬうちに「私たち」、そして、同時に形づくられていく「私たち」による分類のルールに組み込まれていく。
昨日、急に思い立って近所の山に登った。
一応紅葉の名所でもあるその山の中に滝もあって、今年の紅葉と滝を見納めて帰ってきた。
山を降りてから、山の中にいるときと、街中とで、人のつくる空気の流れがかなり違うことを強く感じた。
山の下で日常を営む人間の蠢き。
山の中にいるときの人間はこうではない気がした。
自然という大きな空間の中に存在のみ許可されている。そんな気がした。
そのとき、人間は「私たち」から離れ、「わたし」になれている気がする。少なくとも私はそうだった。
人間は下界で蠢く生き物なんだなあなどと感じた。
呪いのはじまり we > I >は儀礼記号
この世の中は儀礼に溢れている。職場の朝礼、既読後の返信、ドレスコード、言葉遣い、……社会をやっていくための儀礼。こういった儀礼の積み重ねで「私たち」とそれ以外という二項対立による分類から始まり、「私たち」が出来てくるように思う。この下界で毎日毎日何気なく続けている、時に意味があるのかさえもわからないような儀礼によって知らず知らずのうちに「私たち」側に寄せられ、呪われていくのだ。
we > I
この間の>が儀礼の数とすれば、増えれば増える程呪われフェーズが上がるといった理解だろうか。
この呪いに溢れた世の中で全く呪いにかかることなく生きることは不可能に近い。せめて自分に合った呪いなのか見極め、自分が呪いによって苦しむことがあればいつでも解呪できるスキルは持っていたいものだ。そのために、この「私たちとそれ以外」という分類が呪いの根底にあること、この分類は「私たち」によって勝手に決められたルールでしかないこと(「私たち」外では通じることは少ないということ)を心に留めておく必要がある。
下界の蠢きなど、宇宙や自然の存在のデカさに比べたら塵未満であることを考えればいい気がする。
「私たち」を自分自身のように考え始め、その考え方に慣れていくにつれて呪いの強度も上がっていくように思う。we > I の>が増えていくと、「≧」になる感じだ。
わたしはわたしであり、「私たち」であるから「わたし」であるわけではないのだ。
「私たち」の呪いからいつでも解呪できる状態にするには、we > I といった数式に当てはめず、英文法の表のように考えるのが良いのではないだろうか。多くの人が中学英語の教科書で見た人称代名詞のあの表だ。
きちんと「私」と「私たち」は格子によってしっかりと分けられている。(この格子の表も『野生の思考』で出てきたなあ)
人が自己主張をするのに「わたしはわたし」と強く言うのを聞いたりするし、自分も言うこともあるフレーズだが、思うままに口から出てくるその一言を、ここまで掘り下げて考えることになるとは思っていなかった。
『野生の思考』で、未開の野蛮人より欧米白人が科学的思考において優れているという呪いを解くために書き記された民族、部族の研究内容が自分なりの現代の処世術的解呪法に行きつくことも想像していなかった。
予想もしなかった発見や気付きは解呪のヒントなのかもしれない。現代の呪いは想像以上に厄介だ。誰が何に呪われているかなど、自分も周りも、呪いをかける側の集団さえも無自覚なことがほとんどだ。
そんな癖のある呪いを解くためにはいろんな角度からあらゆる種類のレンズを駆使して、まず呪い自体を見つけなくてはならない。
それによって今のこの解呪法とはまた別の方法が見つかっていくのだろう。「これこそが解呪法なのだ」と自らにかけたある種の呪いからいつでも解かれるように。
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