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呪い研レポート【呪いとわたし】「頑張る」呪い

前回に現代社会の呪いについてのレポートを、課題図書であるレヴィ=ストロースの『野生の思考』の感想も踏まえて書いてみたが、今回は思いのほか根深い自分の中の呪いについて書いてみる。


勝手に頑張ってしまう

子どもの頃、何かしらイベント事に参加すれば褒めてもらえることがある。成果が出れば「すごいね」、出なくても「頑張ったね」と。(自分は「頑張ったね」を「褒め言葉」として捉える子どもだったのだなあと今ふと思ったりする)
この「頑張ったね」の一言は意外と一生重く付き纏ってくるのではないだろうか。

「結果は出なくてもとにかく頑張れば報われる」このおまじないが「何事も頑張らないといけない」という呪いに化してしまった気がする。

「好きなことならがんばれる(はずでしょ?)」
というおまじないでwantがmustになる。

踊るのが好きだから
ダンスのレッスンに行く、行きたい
好きだから上手くなりたい
上手くなりたいからたくさんレッスンに行く、行きたい
舞台で踊りたい
踊る快感を得たい

「したい」
だったはずなのに、

上手くなりたいならたくさんレッスンに行くべき
レッスン、リハーサルは最優先で休まず行くべき
舞台にキャスティングされたならチケットたくさん売るべき
ずっとレッスンを受けている先生のクラスの発表会作品には参加するべき

「すべき」になっていく。

やらないと、しないといけない、って思いが積み重なると、
本当にしたいことがわからなくなってくる。
「want」が見えなくなってくる。「must」に塗りつぶされて…??

「頑張る呪い」の根本はどこから?

「頑張らないといけない」と思ってる理由ってなんだろう。
自分が結果を出せる自信がないからかもしれない。
(そもそも「頑張らないといけないこと」なんてあるのだろうか?)

「結果が出せない人間は、せめて頑張らないといけない」という呪い
「頑張っていれば見てもらえるから頑張らなきゃ」という、子どもの頃からじわじわと心身に染み込んでいった承認欲求の呪い
と言うべきかもしれない。
自信の無さと承認欲求が原因なのだろうか。(こう考えたとき、自分が思いのほか自分のことを認めていなかったことに気づき驚いた)

「頑張っていれば見てもらえる」
「もっと見てもらいたい」
「見てもらうためには頑張らないといけない」

サラッと聞いていれば、そこまで耳ざわりではなさげな、間違ってはいない理屈であるようなフレーズ。
だが、いつからか、この「頑張らないといけない」にとても違和感を覚えるようになった。だって頑張らなくても生きていけるもん。頑張らなくても幸せそうな人たくさんいるし。

褒めてもらうことが幸せなのか?
褒めてもらわなくても幸せなら頑張らなくてもよくない?

「生きてたらえらい」
ひとまずこの一言でがんばらなくても死なんやん、て思いつつ、頑張らない日をゆるゆる続けている。

【おまけ】解呪進行中の個人的近況

正直、ここ最近は心底から踊る気持ちになれなかった。
以前は当たり前のように自分の中から湧き上がってきていた踊る欲というものが途絶えた。川の流れの源泉が枯れてしまったみたいに。今もまだ本調子ではない。

がんばることが悪いわけではない。すべきことも確かにある。がんばれないときには無理をしない。これは至極当たり前のことだが、多くのダンサーがオーバーワークしがちであることからがんばることより無理しないことの方が難しくなってしまっている人が多い気がする。かく言う私も例に漏れずそのタイプだ。

自分の気持ちに正直に、「今日は踊りたいか?」自分に聞いてみる。気持ちを優先するリハビリ期間。本当の意味で踊れるように少しずつ流れを取り戻したい。
踊りを褒められたとき、水の流れに例えてもらえた。
自分の中でまた新たな流れが生まれるまで、今は無理しない、頑張らない。自分を潤すとき。

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#プロ奢呪い研レポート


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