死神の目を騙す(雑文)

似ていくことと欺くことについて最近は考える。ハロウィンに仮装するのは霊の姿を真似ることで“本物”に見つかっても平気で帰ってこれるようにするためらしいけど、自分が襲われたり何かしらを損なわないために「怖いもの」に擬態するのは、稀なことではないだろうと思う。
最近髪を染めた。光があたるとずいぶん明るく見える、赤紫っぽい茶髪のショートカットだ。私が思い出すのは昔ツイッターで見かけた「派手な髪色に染めてから痴漢やすれ違いざまにわざとぶつかってくる男性の被害に遭わなくなった」という女性の投稿で、自分が実感を伴ってそれに共感しているわけではないから思い出すだけなのだけど、自分の外観や振る舞いに外側から勝手に当て嵌められる役割、それを買って出ること/好きで演じること/演じるうちに本当になっていくこと、について、考えてしまう。あなたは怖いけれど、私があなたに似ていけば怖くなくなる。本当に? 好きな衣服を身に纏う感覚で体の一部を好きな色に染めたかっただけなのに、極度に自意識過剰な性格も手伝って「この髪色が他人に与えるイメージ」と「自分がこの外見に対して抱いてきたイメージ」が鏡を見るたびにどっと押し寄せてきて、かっこよくてかわいいと思う、だから居た堪れない。こんなのは仮装だ。

私が子供じみた爛漫な振る舞いを好む傾向にあるのはその方が誰からにも愛されるだろうと判断したからで、もっと言えば誰にも見られていなくても神様には愛されるだろうと信じたからで(私は無宗教だと主張しておきたい)、突き詰めれば死神の目も出し抜けるんじゃないかと直感したからだった。子供のふりをしていれば寿命がほんの少しでも延びるのではないかと信じ続けた結果が今のろくでもない自分であって、それでも、まだ少しだけ信じてる。自分の非力さを、今すぐにでも命が絶たれる可能性がこの世に漂っていることを、どう見ないふりして生きればいいんだろう。無知であることの特権性を無視して振りかざすのは厚顔な卑怯者。けれど私には怖いものが多すぎる。憧れている人たちの目に入るために、忘れられないために、自分が忘れないために、頭を傾げながら手探りで書いたり晒したり。それが楽しくて、無謀で退屈で無防備で怖い。子供たちに仮装が必要なくなるのは、“本物”の幽霊に成ったときだけ?どうだろう。仮装って楽しいからするものじゃないの?自分の姿かたちの作為を憎んでも楽しんでもいいはず。

それにしても慣れないな、いろんなことが全部しっくりくるように頑張ります。

2023.5.15

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