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【大阪西成物語】西成の孔乙己と、ホルモンを待つ人たち

 大阪市西成区にはホルモンの名店が何軒もある。

 動画サイトでもくもくと煙を立てつつおいしそうな肉の様子が紹介されているので、私はもう言う必要がないけれど。素晴らしいタレを、噛み切れないような微妙な牛や豚の内臓にからめていただくもので、ふつうのバラやはらみと変わらない値段で取引されている。

 コロナでの制限が明けて、客も平常通りに戻り、私も喜んで行きつけの立ち食いホルモンの店に馳せ参じた。その店はお持ち帰りができるので、若い女性が彼氏のために「んとんと、さ、何にするー?」とあれこれ迷っては「決めてからにしてくれませんか?」と店員にキレられるのは日常茶飯事だ。

 きょうもひとり男性客がいた。「あ、あの、ホルモン2人前をふたつ……」。彼は身長は150センチぐらい。声は甲高くて、髪の毛は短く刈り込んでいて、私とは性的嗜好も違う人なんだろうということが見受けられた。

 彼は、私なんかがカウンターに近づいてはいけない、と思っているらしく、少し後ろで控えていたが、ただでさえ狭い店の、通路のど真ん中を占拠する形になって、他の客も「邪魔やなあ」と目を伏せた。

 彼はぶつかるといそいそとカウンターに身を寄せるのだが、それでもやはり通路の真ん中の定位置に戻るのだった。

 彼が縮こまっているのを見て、中国の魯迅という作家の「孔乙己」という小説を思い出した。

 上海にほど近い、紹興酒で有名な「紹興」という町で、科挙に落ち続けて70歳を超えてしまった老人が、「なあ、おっさん、また本を盗んだってなあ」と冷やかされると、「いや、我々インテリは盗みなどはしない、ほんの窃書じゃ、窃書じゃ」とわけのわからない言葉で皆を煙に巻くのだが、冷やかされるうちに、いつの間にか姿を見せなくなるという物語だ。

 たぶんこの人もそうだろう。明らかに60歳を超えている初老の男性がホルモン2人前を2セット、一気食いをするとも思えないし、誰かから頼まれたのだろう。

 彼は初めてでもないだろうに、さんざん立ち寄ったこの店で、通路で他の客から邪魔扱いされても、申し訳なさそうにカウンターから一歩下がって待っているのが彼なりの美学なんだろう。

 孔乙己ならどう反論したかな。

 ずっと想いを巡らせていると、いつの間にか大阪・西成の孔乙己は姿を消していた。

 

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