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ソフトテニス

皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回の部員日記は経済学部4年の中牟田篤がお送りします。

光陰矢の如し、歳月人を待たず…あらゆる言い回しがありますが、時間の経過はなんとも早いものでして、なんと昨日入部した私もついに最後の部員日記を迎えました。
さて、今まで部員日記ではソフトテニス以外の話題について取り上げてきました。が、さすがに最後までソフトテニスから逃げるのもどうかなと思うので、今回は気ままに自分とソフトテニスという視点で過去を振り返っていこうと思います。長くなりますが、暇人の方はお付き合いください。サムネに何気ない練習の風景みたいな写真を探したのですが、誰が撮ったのかもわからん謎の写真が出てきました。呆れた顔してる晴貴君がいいですね。

小学校時代

私がソフトテニスを競技を知るのは中学1年生の頃になりますが、せっかくなので振り返っておきます。小学校時代はサッカーを楽しんでいました。幼稚園から地続きで3年生までクラブに通い、4年生から小学校のサッカー部に入部して6年生で引退したので、実は結構長くサッカーとお付き合いしていたりします。

昔から敏捷性に欠けるもの上背はそこそこであった中牟田少年は、センターバックというポジションを長いこと任されます。ゴールの前にいるディフェンダーで、日本代表で言うと吉田麻也選手にあたりますね。今でこそ海外サッカーが生活の一部になっていますが、実は当時サッカーはそんなに好きではありませんでした。というのも、やはり点を取れるポジションではありませんでしたし、試合に負ける度にミーティングで指導者から責められていたのが辛かったからです。

しかしながら、それも指導者とのマッチングが問題だったのではないかと今では思います。小学校の図書館ではサッカー雑誌を食い入るように読んでいましたし、心の中では相当サッカーが好きだったのでしょう。派手なテクニックや俊足といったわかりやすい長所をもっていなかった分、サッカーを続けようとは思えませんでしたが、そんなのサッカーを構成する粗末な1要素でしかありませんでした。当時は気付けなかったのですが、いやーにしても、サッカーは奥が深くて面白いですね。

中学生時代

中学は地元の日進西中に進学しました。小学校の経験もあったので個人競技をやりたいと思っていたこと、高校生になった姉のお下がりが使えること、から当初剣道部に入ろうとしましたが、近所のO君から誘われてソフトテニス部に入ります。ちなみにO君は高校から弓道に勤しみ、ソフトテニスからすぐ足を洗いました。

なんとなくソフトテニス部は強豪という話を噂レベルで聞いていましたが、実感は入部してからでした。強さの秘訣はシンプルで、日進ジュニアというジュニアが近所にあるからでした。ちなみに日進ジュニアはコンスタントに岡崎城西で活躍する選手を送り込むくらいには強豪で、1つ上の駒先輩というニコニコヤンキーは城西でも関西外大でも活躍されてました。

さて自分はどうだったかと言うと1~3番手をジュニアが占める学校の4番手、という立ち位置にいました。自分達の代になった頃、毎週のように遠征に向かい審判をしては、上番手6人が賞状を勝ち取っていたような覚えがあります。交通費出して審判ばっかりしてましたね。

貴重な経験はさせてもらっていましたが、この頃のテニスはあまり楽しくありませんでした。楽しかったのは遠征途中のサービスエリア、ジュニア組の親とのおしゃべり、オフの日のモンスターハンター4とかでしょうか。最後の総体予選は1つ下の他校のジュニアに初戦であっけなく負けました。

ここからはスーパー余談ですが、僕の1つ上の代の愛知県勢の話をしたいと思います。知らない人はもう少し下までスクロールお願いします。

ただ応援してるクソガキの身分でも楽しめるほど、当時の愛知県の中学ソフトテニス群雄割拠で楽しく観戦した思い出があります。昔から国力だけは良かったので、当時の記憶と後に知った情報で補完してその供養をしていきます。

スター選手揃いなのはなんといっても加木屋中でした。イケメンでアホ速いスピードボールを放つ谷口選手(高田商業から関西大に行った谷口選手その人です)、そしてその谷口選手と正クロスで1歩も動かずに乱打を続ける長瀬選手は今でも強烈に印象に残っています。時期にもよるとは思いますが、僕の記憶では3番手には久乗・佐古と全くスキがありませんでした。
しかし、その加木屋中に待ったをかける存在がありました。安城東山中です。後に岡崎城西で活躍する稲熊・寺窪、そして1つ下の県優勝の上畠・須内が控えます。そして他中にも2校に匹敵しうる個人がゴロゴロいました。刈谷南の宮里兄弟、後の岡崎城西インターハイ準優勝の立役者となる当時逢妻の石川・小松、松平の花形・古川など枚挙に暇がありません。

いつかはあのレベルでプレーしたい、なんて思いを抱いたことはありませんでした。こうした選手たちは目標でも戦う相手でもなく、見てるだけで楽しませてくれる映画の登場人物のようなもので、自分と同じスポーツをしているとは頭が理解していませんでした。

高校時代
高校はナゴヤドームにほど近い旭丘高等学校というところに進学します。極めて充実した3年間を送れた自覚はあるのですが、初めてソフトテニス部を見学した時、弱すぎて啞然としたのは今でも覚えています。前衛に至っては経験者がほぼいないというレベルで、中学とは打って変わった状況に戸惑いました。ただ自分の中で別にやりたいものもなく、「逆に役に立てそうやなぁ」くらいの軽い気持ちで入部しました。幸いにも同期には経験者が一定数おり、下の代が豊作だったこともあって最後の総体の団体戦で県大会に出れました。後々15年ぶりくらいだったことを聞かされてなお衝撃でした。

高校三年間のテニスを総括すると、中学以上に楽しかった思い出が多いです。もちろん大事なところで勝てなかった瞬間も多く、思い返すとレベルが高いわけではなかったのですが、ギリギリ目標に手が届かない難易度が心地よかったと今では思っています。ありがたいことにペアだったり仲間に恵まれた部分も多分にありました。引退後には文化祭の劇に打ち込み、流れるように浪人して慶応義塾大学にたどり着きます。すみません、段々書き疲れてきました。

大学時代
国立に落ちて落ち込んでいた中牟田少年は、「せっかく私立に来たんだし、体育会系にしごいてもらおか」くらいの雑な勢いで入部します。ちなみにこれは本当で、入部の動機を問われて返答に困った思い出が多いです。もちろんテニスが好きというのは嘘じゃないですが。

昔の苦しい思い出は正直覚えていません。今度小板橋君に聞いてみます。今思い返すと「コイツいつ辞めるんやろ?」と当時の先輩たちは思っていたのかもしれないくらいにはテニスが弱く、体力もなかった気がします。

ただ主務になってからは本当に大変でした。主務になるまでは自分より一つ上の番手の人に勝ちたいな、そのためにどうしようかな、程度の考えで過ごしていましたが、主務になってからは脳内に主務の仕事が必ず残り続けるようになりました。自分が心配性という側面もあるのですが、「当日までに思い出せずにドボン」なイベントもあるかもしれないですし、コロナの陽性者、クラスターが起きたらなどなど、不安は尽きませんでした。入部は昨日でしたが、主務は十年くらいやっていた気がしてなりません。

さて、本格的に書くのに疲れてきました。他にも色々書けるものはあるのですが、それはまた次にお話しする機会まで取っておきましょう。

今後とも慶應義塾体育会ソフトテニス部をご贔屓によろしくお願いします。