「『河童自伝』細川嘉六 生い立ちの記・『放談』・獄中書簡」を読んで
戦時下最大の言論弾圧「横浜事件」の中心人物として無実の罪を着せられた細川嘉六の生涯をたどる「河童自伝」が先月刊行された。
政治学者・評論家の細川嘉六(1888~1962)は戦時下の1942年、雑誌「改造」に発表した「世界史の動向と日本」が陸軍に「共産主義の宣伝」と問題視され、警視庁に治安維持法違反で検挙された。この検挙が神奈川県警特別高等警察によるでっち上げの「横浜事件」につながり、約60人の編集者や新聞記者らが検挙された。拷問などで4人が獄死、保釈後に1人が死亡するなど取り調べは苛烈を極めたが、細川は不当な捜査への抗議から容疑を認めなかった。
題名の「河童」は細川が河童の絵を好んで描いたことに由来する。
特高は河童の絵を押収し、「河童は水にもぐっている。共産党員たる証拠にほかならない」とこじつけ、重要な証拠物として法廷に提出した、という笑うに笑えない話もある。
今回の「河童自伝」は、「生い立ちの記」、戦後、細川が歴史家らとの座談で活動や足跡を振り返る「放談」、「獄中書簡」の三部で構成されている。
「書簡」は29通が収められている。
このうち、東京拘置所と横浜刑務所から妻みね子あてに出された「獄中書簡」が17通を占める。1943年7月から45年7月までの手紙には、夫妻の細やかな愛情が文面や行間ににじみ出ている。その一方で、手紙の検閲にあたる当局を意識し、拷問や長期にわたる拘束に決して屈しない意思が読み取れる。
細川は「私の修練を喜び、更に私の将来を教導される親身の人の無事健在を祈念せずに居られません」などと、拘置所や刑務所を「修練」の場と位置づけた。
「差入書物によって私一生の一大収穫が出来かかっている」として、みね子には書斎にある蔵書のほか、古本店が扱う書籍の差し入れを繰り返し頼んだ。
このころ細川は五十代後半にさしかかろうとしていた。
「六十の手習いは老人の冷水、哀れなことと思っていましたが、しかし、ここで静かに考え、暮らしている中に全くそうでないことを悟りました」
「この六十の手習いを毎日、毎日、全く喜びと希望とを以てやっています」
「磨き上げた一生、最後の磨きをかけた私をご健在で迎えて喜んでもらいたい」
細川自身は戦後、厳しい拷問を受けたことを認めている。
通常の人間なら根を上げ拘禁症状が現れてもおかしくない状況が続いていた。それでも検閲官に対し、決して心が折れていないことを強調するために書き続けたのだろう。「御書面には戦争等のニュースを書き入れないように心がけてください。検閲官に御手数をかけることになります」などと、挑発的ともとれる表現もある。
読書以外にも細川は、獄中でラジオニュースの大本営発表を聞いていた。政府の情報局が発行した「週報」や「写真週報」からも戦況を読み取っていた。
敗戦1年前の2月には「出来事、情勢はよくわかります」とし、東京大空襲の4日前には「世の中のこと、国内の出来事、皆自分の掌の中に見るようです。従来私が深く考え発表して来た通りに続々発現し来り、誠に学問の偉力をしみじみ感じます」、「国の内外の事態は更に私の学問の真価を証明すると毎日想見しています」と書いた。
1945年7月の手紙では、敗戦を確実視したとみられ、自身の無実も主張している。
「私の事件は全く公表した諸論文に限ったことであり、それは又我国民中、最良最有識層幾千万の人の承知しているところであり」
「ここ幾年に亘る日本内外の重大な事態の推移変化によって所論の正邪当否がこの幾千幾万人の前に証明されているところである」
「私の事件の内容はそれですから、悪意な曲解邪推を弄しない限り簡単明瞭なもの」
この時期になると、検閲制度も形骸化し、甘くなっていたのかもしれない。敗戦間際の当局の士気も低下し、担当官もこうした抵抗心を隠さない記述でも漫然と見過ごすしかなかったのだろう。
戦前、戦中、国民の自由を奪い、猛威を振るった治安維持法施行から来年で100年になる。「河童自伝」は暗黒の歴史を振り返るとともに、急速に戦前に回帰しつつある今の時代状況を考えさせる内容になっている。
A5判、327ページ。六花出版。2420円(税込み)。