社会が個人に要求する水準によって発達障害や境界知能という言葉が生まれる

 発達障害や境界知能と言う言葉を最近ネットでよく見聞きする。これらのことを認識したタイミングとしては、学校生活から社会人生活へと移行する時である場合が多いように思われる。つまり、学生から社会人になって初めて問題が顕在化するのだ。

 それではなぜ学生のときに問題が顕在化しないのだろうか。何らかの特性によって社会生活を送ることに支障があるのであれば、学生時代にそのことに気付いてもよさそうであるが、何故気づかないのか。それは学生時代には自分の問題だけで物事を処理することができるからではないだろうか。少し人より理解力が低かったり、手先が不器用だったりしても、「あぁ、あの人はそういう人だから」の一言で片付けられる。時間にルーズだろうが、理解力が低かろうが、手先が不器用だろうが、自分の特性によってどれほど不利益を被ったとしても、結果として不利益を被るのは自分自身である。自分が遅刻をして自分だけが怒られる。ノートを上手く取れなくて学習の内容が理解できなくなる。校則を守らずに先生に叱られる。いずれも周りの人間(特に教師)から低評価を受けて終わりである。
 
 一方、社会人として働くとなると、周りの人間にどうしても影響を与えてしまう。それは現代社会において一人で完結する仕事はほとんどないからだ。もちろん例外もあって、株式投資やクリエイティブな仕事であれば主に一人で仕事を完結することは十分可能である。しかしそれ以外の仕事に携わるのであれば、他人と共に協力して仕事を行わなければならない。そこで理解力が低かったり、時間にルーズだったり、手先が不器用だったりしたら、ミス等を引き起こして周りの人間に迷惑をかけてしまう。もちろんそこには金銭の対価というものも存在するので、クオリティーの低い仕事であってはならない。学生時代のように自分の特性によって生じる問題への許容度が一気に低くなるのだ。

つまり、社会が人間にどれほどのことを要求しているかによって、発達障害や境界知能と認識されるかどうかに違いが出てくる。もし社会が仕事のクオリティの高さを求めない(一人の人間に何でもそつなくこなすことを要求しない)のであれば、こうした問題を大きな問題として捉えられることもないのではないか。故に発達障害だの境界知能だのという言葉がこれほど濫用されることもないのではないだろうか。