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『反応工程』に対する邪道かもしれない感想

皆さんご存知かもしれませんが、7月の私はタカラヅカファン的に身も心も忙しいのですよ。
ああそれなのに、こういう時に限って外部でもやたら見応えある作品に出会ってしまうから困る!!

今日の新国立劇場小劇場『反応工程』も、そう。
今週分のエネルギーは『森フォレ』で使い切っちゃったし、今日は余力で見ようと思っていたのに、なんだかそれを許してくれない作品だった。

舞台は終戦の数日前、九州の三池炭鉱近くにある軍需指定工場。
工場の偉い人、職人気質の責任工、本職は別の徴用工、見習工、そして学徒動員で工場に来ている学生などなど、さまざまな立場の人たちがいる。主人公的な存在の田宮は、社会主義思想に少し興味を持っているが、班長にも選ばれる模範的な学徒で、日本の勝利を信じている。

この期に及んで届く「赤紙」、「アカ」に対する憲兵の執拗な追及、隠される敗戦の予測、そして空襲警報・・・究極の状況の中で誰がどう考え、どう動いていくかが丁寧に描かれていく。   
最後の幕だけ、終戦後の秋に急に時間が飛ぶ。価値観が180度変わった世界で、皆がしたたかに生きる中、田宮は??……というところで幕となる。

初演は1958年だ。作者の宮本研は「戦中・戦後の自分の体験を一度整理しておきたい」という思いから、この戯曲を書いたという。でも、不思議と古さは感じなかった。
それはおそらく、この作品が扱っている「世の中全体がある方向にすごい勢いで動くとき、そこにどう向き合うか?」というテーマに普遍性があり、今またそのことが問われているからなのだろう。

(ちなみに、徴兵を拒否する影山という学徒の役、1959年の再演時に蜷川幸雄さんがやっていたらしい)

この手の群像劇を見ると「自分なら、どうしただろうか」と、必ず考えてしまう。
主義主張を貫く生き方がカッコいいなあと思うけれど、絶対そんな風には生きられないに決まっている。少なくとも今が究極の選択を迫られるような時代ではないことにホッと胸をなで下ろすヘタレである。

でも、どういうわけか今日は「どうせ身の丈にあった方法でしか向き合えないだろうし、考えても無駄。とりあえず精一杯生きていればいいのさ」という悟りのような開き直りのような境地に達してしまった。
そういう思いに至ったのはおそらくこの作品、どの登場人物に対する目線もフラットで温かかったからではないかな、と思う。

いつも要領よく権力に迎合できる人、付和雷同でお気楽に生きてる人、いろんな人が出てくるけれど、どの人も憎めなかった。どんな生き方をも包み込む懐の深さが感じられて、不思議と勇気を元気をもらえた気がした。
それは、元々の戯曲の細やかな気配りが行き届いているからかもしれないし、演出の千葉哲也さんの優しさかもしれない。

フルキャストオーディションという試みが注目された作品でもあり、昨年4月、コロナ禍により開幕直前で公演中止を余儀なくされていた作品でもあった。ここに至るまでもすでに様々なドラマがあっただけに、キャストの皆さんの舞台上でに息づきようが眩しかった、ということもあるかもしれない。

と、ここまで書いたところで、この感想をアップすべきか躊躇してしまった。もしかして、こういう社会派な作品に対してこの受け止め方は「正しくない」のではなかろうか?
しかし、さらに考えて、やはりアップしようと思う。なぜなら「どんな作品も色々な受け止め方があってよい」ことは強く主張していきたいからだ。
ヘタレな女Sのこんな感想も、あっていいじゃないか、ということで。

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