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ハナヤマタの魅力について

 初めまして。コンテナ店子と言います。

 今回は、自分が一番好きな漫画であるハナヤマタについての魅力を語ります。

 もう終わって3年くらい経ちますが、ハナヤマタだけは週に何回か気になったシーンとかを読み返したりしてますし、唯一部屋にあるアニメグッズはハナヤマタのキャンバスアートです。

ハナヤマタのキャンバスアート

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 個人的には今まで見た作品の中で1番好きな漫画なのは言うまでもないですし、個人的にはアカデミー賞を取った「ムーンライト」とか並にキャラクターが興味深いし、去年ノミネートしてた「ストーリーオブマイライフ」並みに風景がおしゃれだし、映画ファンから絶賛されてる「燃ゆる女の肖像」並に芸術性の高い作品だと思っています。

 さらに、先ほど言いました通り原作も完結して3年、アニメ版は放送されてから7年が経ちますが、今でもファンアートも稀に描かれる他、SNS上でアイコンをハナヤマタにしている人もちらほらいます。

 今回の記事では、なぜここまで根強い人気があるのか。なぜここまで自分が高い評価をしているのか。その魅力について1つ1つ解説していきます。
 あくまで、これは自分が思う魅力です。そんなことないと思う人もいると思いますし、もっと他の魅力を考える人もいるでしょう。それは人それぞれです。むしろ、人によって違う意見を持っている方が個人的に面白いと思うので、違う意見を持つ人のも聞いてみたいです。それじゃあ行きます。

①キャラクターがみな興味深い

 ストーリー性がある創作物の評価について、主要となるキャラクターに興味を持てるかというのは、大きなウェイトを占めます。理由は簡単です。なぜ、キャラクターがこのストーリーに関わるのかという動機がしっかりしていない場合、そこで起こる内容がどれだけ話の中で重要なのかというのがはっきりしないと、それがどうでもよくなってしまいます。
 どれだけ好きになれているキャラクターでも、そのキャラクターが本気でやってることに取り組んでいる時と、嫌々やってることだったらどっちの方が作品として盛り上がるかで考えればわかると思います。

 そういう意味でハナヤマタは作中で起きていることやキャラクターが取り組んでいる事にすごく重みがあります。各キャラクターがよさこいを始める際に、その人格形成やなぜ他のキャラクターたちと仲良くするのかという点をちゃんと描いているからです。

 これは、個人的な意見ですが、ハナが日本に来た時によさこいに興味を持ったからこれを始めたというだけで、他のキャラクターからすれば、別にやることがよさこいである必要性はなかったと思っています。つまり、ハナヤマタに置いて、キャラクターがよさこいをやる理由は、他のメンバーの事が好きであるからという点が大きいと言うのが自分の意見です。
 具体例をあげれば、10組目「お父様☆トールド☆ミー」でハナがタミを誘う際に、踊りが美しかったからということ以上に、一緒にいて楽しかったからということを強調して誘う点(2巻P68)、22組目「グレープフルーツ。」で一度も一緒に踊っていないのにヤヤの事を仲間だと明言している点(3巻P173)などがあります。

ハナがタミを誘うシーン

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引用元:浜弓場双(2012).ハナヤマタ②(P68) 株式会社芳文社

 このように、ハナヤマタにおいて、キャラクターからみて重要なことがよさこいをすることではなく、好きな人たちと一緒にいることであるとするならば、キャラクター同士がお互いを好きになっていく過程を納得できるようにしなければなりませんが、この作品ではそこも抜かりはありません。

 主人公であるなるを例に出します。アニメ版では心の中のセリフで言っているためわかりやすいですが、彼女がよさこいを始めたのは、ハナが初めて自分と一緒に何かをするという過程を認めてくれた存在として現れ、ありのままの自分を受け入れてくれます。彼女視点ではすでに結果を出している様に見えるヤヤやタミ、結果をせかす父親に挟まれていたなるからすれば、身近に感じる存在だと思うし、ハナの美しい見た目から、特別な存在に近づけたように感じます。

 あと、彼女はハナに対して最初はよくわからない存在であり、自分と違って勇気と自信にあふれていると感じていました。これは、冒頭で宇宙人の夢を見ていたことからも明らかです。でも、話したり見ていく中で、結果を上手に出せない姿や、断られた時に落ち込んでいる姿、他人の姿を見て特別になりたいと思っている自分と同じルーツを持つ存在であることを知りました。そこから彼女に対して自分も一緒にいたいという気持ちが強くなったのです。

 最後になるは一緒に踊れて楽しかったと語りますが、これは確かに言葉通りの意味ももちろんあります。しかし、それ以上に、彼女にとって大きかったのは、追い回されたり会話をしていく中で、初めて本気になれたと言うところが大きいと思います。本気でよさこいをするか迷い、本気でハナとどう接するか悩み続けたことが楽しかったのです。だから、文芸部の時に一度諦めてそのままだった時とは違うのです。

 これは、3組目「オニさんコチラ」において、図書室でハナが帰ってしまった時の表情が裏付けています(1巻P71)。あのシーンは自分が断り続けていても、いつかあれだけ自信にあふれていて行動力もある相手だから、向こうがなんとかしてくれると思い込んでいた部分が自分の中にあったことの表れです。それから、一度自分のせいでよさこいを始めるチャンスを失ってしまい、そこからまた取り戻すことで、最初からうまくいくよりも、より彼女にとって大きな出来事であったのだという説得力につながります。

ハナに自分の言葉が受け入れられてしまったシーン

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引用元:浜弓場双(2011).ハナヤマタ①(P71) 株式会社芳文社

 このように、ハナヤマタという作品においては、キャラクター同士の絆を描く時、仲良くなる動機を最初に設置し、その後に挫折や失敗を必ず挟んでから、それを修復していくという展開が基本であるため、なぜキャラクター同士が仲がいいのかというところに深みが産まれるのです。今回はなるとハナを例に出しましたが、他も同様です。

 あと、このような話をすると、ヤヤはなるの成長に対してアプローチが出来ていないため、なるが本当に好きなのはハナである。という意見をまれに耳にしますが、それに対して自分は懐疑的です。
 これは、なるに限らず、初期メンバー5人に共通しているテーマだと思っているのですが、自分を支えてくれる他人のために役に立ちたいという気持ちがどのキャラクターの根底にもあります。

 なるにとって、よさこいを始めたのは、自分も憧れであるヤヤやタミのようになりたいと言う気持ちから来ているのは言うまでもないでしょう。7組目「つぼみ。」においてヤヤに認められたいだけと明言しているのが根拠となります。
 なので、ハナによってそのきっかけが与えられたという一面がありますが、それ以上に、ヤヤたちに自分が成長した姿を見てもらうことで喜んで欲しいと言う気持ちが強いことが上げられます。

 その根拠として、上記のもの以外にも、14組目「グリーングリーン」においてタミがお父さんに自分の気持ちを伝えられたおかげで、よさこいを始められて、喜んでいるところを見ていれば明確でしょう。このように、なるとヤヤとの間にも、彼女がよさこいを始めた経緯については強いきずなを感じます。

②キャラクターの表情が素晴らしい


 ハナヤマタの特徴として、会話と会話の間に、数コマほどセリフが一切ないキャラクターの顔をアップで捉えているタイミングが多々あります。例えば、1巻を例に出すと1組目「シャル・ウィ・ダンス?」において、ヤヤからしたいことをした方が楽しいと言われて、それになるが返事をする際に、顔のパーツの色が薄くなっているコマがあります。

ヤヤに返事をするシーン

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引用元:浜弓場双(2011).ハナヤマタ①(P11) 株式会社芳文社

 このコマについてどのような意味があるのかということを語るのはもちろんですが、その前に、セリフがないコマの魅力について語ります。人の表情はなぜそうなったのかという答えは本人の心の中にしかありません。なので、ファンの間でこの時、このキャラクターはどういう考えを持っているのかということを話し合ったり、自分の中で考えたりすることが出来ます。

 これは今年アカデミー賞にノミネートしていた映画の『ミナリ』などを始めとした世界的に高い評価を受けている映画において多々使用されている技法と言えます。ハナヤマタではサブタイトルに映画のパロディの物を付けることが多いこともあり、原作者の浜弓場双もそう言ったことを考慮していると言えるでしょう。

 では、上記のなるが返事をするシーンにおいてその感情における個人的な解釈を話します。もちろん、この返事であるそうだねというのが完全な同意ではないのは言うまでもないでしょう。この時にすぐ返事が出来なかったのは、もちろん彼女も理解の中ではそうだと思ってはいるが、人間という物は自分にとって楽な意見や共感する意見という物を記憶しやすい物だと思います。
 なので、その時に頭の中で、かつて文芸部のドアを叩けなくて内心ほっとしたことを否定することになるヤヤの言葉を、全面肯定することは難しいと言えるでしょう。その時に、きっとなるの中でとっさにヤヤの言葉を否定する言い訳がよぎったはずです。このような理由ですぐに返事が出来なかったのではないでしょうか。
 ただ、もちろん彼女の中でもしたいことをしたいと言う気持ちも当然あります。なので、伏せがちな表情をして、ただ自分の気持ちを隠しているのです。そして、その迷いという形で感情を引っ張っていることから、そこから三点リーダー使ったり、風景や風で木の葉が流れている様子などを映してゆったりと時間が流れている様に見せています。

 このシーン以外にも、この漫画には探せばいくらでもキャラクターの表情を大きく捉えたシーンが見られ、その度にキャラクターが何を考えているのかということを考えさせられるという点で、美しい、ないしは芸術的であると言えるでしょう。

 あと、これについてですが、逆に映さないことで興味深くなっているシーンもあります。1巻では、3組目の「オニさんコチラ」において、図書館でなるがハナの誘いを強く拒否するシーンがそれに該当します(1巻P70)。

なるがハナの事を強く拒否するシーン

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引用元:浜弓場双(2011).ハナヤマタ①(P70) 株式会社芳文社

 このシーンが素晴らしい理由は、今まで自分がこうであるとなるが勝手にハナの感情を決めていた所と違う行動をしたと言うことから、相手の事がわからくなってしまったと言う事や、実は踊ったことが楽しいと思っていた自分からすれば、一気に距離を離されてしまったように感じたことを表現しているように感じるからです。
 なるからすれば、今まで自分に夢中で、彼女であれば私がどれだけ距離を置こうとしても引っ張ってくれる、おとぎ話の妖精のように自分は何もしなくても何とかしてくれると思っていた気持ちがあそこに現れていると自分では考えています。

 このように、ハナヤマタでは表情の1つ1つにキャラクターの感情や思いが非常に細かく表現されていて、それがために、彼女らの悩みや葛藤や喜びや悲しみなどが口で説明されずに、自分で解釈したうえで知ることが出来ます。
 これがなぜ大事かと言うところを細くします。その方が、見てる側として共感を持ちやすいからです。例を上げますと、第25組目「カプチーノ」において、なるがこれからステージに出る際に自分は大丈夫だと発言していますが、これについて本当に大丈夫と思う人はいないでしょう(4巻P71)。これを何故かと言えば、何度も大丈夫だと自分を鼓舞するようになるが言い続けているシーンや、あまりあまり明るそうな表情をしていないからという点があると思います。
 このように、キャラクターの感情に限らず、創作物で表現される内容については、文章で大丈夫じゃないと説明させるよりも、キャラクターの表情などで表現した方が、見ている側としても自分の中で考えて理解できるがために、この状況であればこのような考えを持つべきであると、自信をもって言えるために、より伝わりやすいのです。


③風景の表現が素晴らしい。


 上の所でも少し語りましたが、この漫画では風景でキャラクターの感情を美しく表現していることが多々あり、それによってよりその内面への理解が深まりやすくなっています。
 これも映画などでよく使われる表現で、今年のアカデミー賞の作品賞を受賞した『ノマドランド』においても広大な自然と主人公の女性を対比することでその孤独感を描いたり、年老いた女性と工事用の大型重機をアップで同時に移すことで現代社会の過酷さを表現するなどの映し方をしています。

 このような物は作品全体のトーンを決める役割を果たします。上記におけるノマドランドにおいても、広大な自然と薄暗いシーンを使うことでゆったりとした雰囲気を持たせて、夫を失った主人公の満たされない心の穴を描いています。

 ハナヤマタにおいてもこのような表現が使われています。この作品において、読んでいる皆さんは詩的である、おとぎ話のようである、と感じたことはないでしょうか。それは主人公であるなるがそれへの関心を強く持っているという点もありますが、それ以上にこの表現という点が大きいと思っています。具体例を挙げると、キャラクターのパーツを描く線を細く描いている点、風景に置いて丸い光が非常に多く使われている点、光の明るい所と暗い所の境界線をあいまいに描くなどがそう感じる要因になっていると言えるでしょう。

 作品全体のトーンへの影響はもちろんのことですが、それ以外にもキャラクターの内面を表現するのに有効的です。前述の『ノマドランド』で主人公の孤独感を表現していたように、ハナヤマタでもこのようなことが行われています。

 1巻を例に出しますと、2組目「ロック・ユーです」において、夜にハナと出会ったシーンでは周囲に桜を満開に描かれていたのと、大きく開けた服、アップでキャラクターに近い距離で描かれていました。これによって、なるからすれば、いつも明るくて自分の力で周囲を動かすことが出来る存在であるように描かれていました。
 その一方でなるたちのクラスにやってきたハナはどうでしょうか。始めて自己紹介をする際に、彼女の全身を離れた位置から捉えていますし、彼女よりも大きい先生の姿や黒板の様子も映していますし、左右に開いている空間が大きくあります。

ハナの自己紹介のシーン

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引用元:浜弓場双(2011).ハナヤマタ①(P46) 株式会社芳文社

 このシーンの表現により、彼女の姿は小さく見えるのは言うまでもないでしょう。ここで、彼女も1人の人間であり、何でもできる存在ではないと言う印象を受けるようになっています。


 このように、この漫画ではキャラクターの内面や作品のトーンを文字で説明するのではなく、視覚的に理解できるようになっていたので、よりキャラクターの掘り下げに共感できるようになっていましたし、独特な雰囲気が出ていたので、他の作品とは一線を置くような物になっていたと言えるでしょう。

④キャラクターの内面がとてもリアリティに溢れている
 中学生というと皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。個人的には口が悪くて自分のアイデンティティを探してて、他人に流されやすいようなイメージを持っています。この部分において、この漫画は非常に再現性が高い作品であると言えるでしょう。
 このような作品が高い評価を受けているのは言うまでもありません。具体例を挙げるとするならば2018年アカデミー賞で作品、監督賞を含む5部門でノミネートを取った『レディ・バード』を例に出せばわかりやすいでしょう。あの作品も上記のような若者の特徴を綺麗にとらえ、世界的に絶賛されています。

 一方でハナヤマタはどうでしょうか。個人的にこの部分が一番よく表れていると思っているヤヤを例に出して語っていきます。彼女は常に他人に対して優位に立とうとしている点が目立ちます。22組目の「グレープフルーツジュース。」において、バンドをしていた自分が上手くいってる気がしているから続けていただけであると言います(3巻P169)。
 さらに、なるたちが自分の居場所を作っていたのが羨ましかったと言っています。これは、つまるところ、バンドをしていてなるやランたちにかっこいいと言われているということに自分のアイデンティティを感じていて、それを失って、内心下に見ていたよさこい部のメンバーが自分を引き入れようとしているという敗北を受け入れられなかったと言うことを意味しています。

 この時、ヤヤがハナたちを見下していたという点に疑問を持つ人もいるでしょう。ですが、自分はそうは思いません。9組目「Princess ×Princess」において、アンタたちみたいに暇じゃないと発言している所もありますし(2巻P38)、それ以外にも15組目「はじめのいっぽ」ではじめて生のよさこいを見た際の表情が、目じりが上がっていて上から見るような視線になっているのもそれを表現していると言えるでしょう(2巻P158)。

 このように、他人と比べた際の自分の優位性を持ちたがるという点は、人間として評価が下がる点だと一見思うポイントですが、中学生という年齢を考えれば、妥当と言えるでしょう。
 この根拠として、厚生労働省が運営しているe-ヘルスネットの「思春期のこころの発達と問題行動の理解」というページにおいて、「ずっと「良い子」であった子どもが自主性(自律性と自発性)を獲得しようとしたとき、反動的に反抗的態度が強く出ることもあります」と書かれています。こういったことに忠実であるため、ヤヤのキャラクターは素晴らしいと自分は主張したいのです。

 21組目「ガールズ・アイデンティティ」において、彼女が怒った際に、3人がよさこいを踊っているコマが挿入されたのは、イベントなどに出ようとしていて軌道に乗っているよさこい部に対して、自分がアイデンティティを失ったと言う事実を認めたくないのでしょう。この回のサブタイトルにアイデンティティと挿入されているのも、それを題材としているからだし、ガールが複数形になっているのも、ヤヤから見て3人のアイデンティティと比較しているからです。

よさこいを踊っているコマが挿入されるシーン

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引用元:浜弓場双(2013).ハナヤマタ③(P134) 株式会社芳文社

 アイデンティティの確立が中学生の精神状態において大きなウェイトを占めているという点は、発達心理学者のエリクソンが提唱した心理社会的発達理論において中学生くらいの年代では「自分が何者なのかを探している」と記されています。このため、彼女の心理状態を説明するうえでよい根拠であると言えるでしょう。


⑤ラストが素晴らしい


 ここでいうラストとは、5巻の終わり、アニメで言うところの12話の花彩よさこい祭りが終わったところまでのことを言います。それ以降が悪いと言う意味ではなく、あの終わりが本当に素晴らしいからここで取り上げました。
 一応振り返っておきますと、あの時のラストは、アメリカへ帰ったはずのハナが母親から説得されて、4人で踊ろうとしてきたところに戻ってきて、5人でステージに出たで終わりを迎えます。

 まず、このシーンをラストに持ってきたというところが素晴らしくて、ハナヤマタのストーリーの規模にとても合っています。漫画に限定せず、話というのはだんだん規模を大きくすることで盛り上がりを見せます。
 例えば、テスト中のカンニングを題材にした『バッド・ジーニアス』という映画では、最初はクラスの小テストだったのに、ラストでは国家資格をかけた勝負になります。

 それに対してハナヤマタはよさこいだけのイベントですらないですし、それによってどのような結果があったのかについての描写もありません。ですが、それについて問題には感じません。
 その根拠として、ハナヤマタはよさこいを題材にした漫画ではありますが、よさこいの漫画ではないことが言えるでしょう。実際に踊っているシーンの多くが数少ないコマで終わっている点や、その際に使用するテクニックなどの解説がほぼないことが具体的な根拠です。

 つまり、ハナヤマタにおいて大事なのはよさこいを踊ったことでどのような結果を出したかという事よりも、それに対してどのようにキャラクターが感じたかという事の方が大事だと言えます。
 これについては、中盤で行ったデパートのイベントにおいて、なるが失敗したことについてタミやヤヤがそれ以上に気にしているのが、ハナへお見舞いに行かないことであることの方であったことの方が明確です(4巻P93)。これは、せっかくいままでやった練習を台無しにされたことよりも、友達を不安にさせることの方が許せなく感じているから、このような態度を取ったと考えられるでしょう。

 よって、この漫画において、初めてまだ数か月だったキャラクターが、県などの規模の大きなイベントに参加することは少々説得力に欠けることもあり、町内規模の話で終わる方がいいと思いますし、キャラクターにとっては5人でよさこいを出来たことの方が結果よりも大事なことだと言えるでしょう。

 さらに細くすると、ここまでのストーリーに置いて、各キャラクターがなぜよさこいを始めたのか、なぜこのチームに入ったのかというところを描いているので、このステージに出たことがどれだけの重みがあるのかを理解できます。


 そして、ステージのシーンですが、キャラクターの周辺人物がそれを見た感想を言っているシーンの後に、なるの心のセリフが出てきて終わります。これについてもそれぞれ語らせてください。

 まず周辺人物についてですが、各キャラクターの個別ストーリーにおいて大きな役割を果たしていた人が多いです。その中でも、個人的にヤヤの元バンドメンバーであるにくきゅうの存在がすごく好きです。ここは、ヤヤがバンドの事を諦めなかったことで、なるたちから見捨てられなかったことや、自分を曲げてでも友達の声に応えようとしたことが、本気じゃなかったと簡単に諦めてしまった他のメンバーたちとの比較になっていて、その誇りに強い思いがなしえた結果だと思うと、すごく感動的です。

 それ以外にも、なるやタミの両親は、2人の成長を実感するうえで大きな役割を果たしていたと思います。

 そして、一番尺を使っているハナの両親ですが、これについてはなるの独白とリンクしています。この作品の最後はこの2つで締めくくられています。まずこれらの言葉の締めは「誰もが手に入れられるわけではない大切な物へ向かって頑張っていた」という言葉と「みんなが大好き」という言葉で終わります。
 自分の個人的な意見ですが、この2つはハナヤマタのメッセージ性を込めた作品であると言えると思います。ここで、これがどのような言葉なのか、なぜこれほど素晴らしいのかについて語ります。

 ちょっと急に話が変わりますが、みなさんは『ドラゴンボールGT』のラストを知っていますでしょうか。この作品はけっこう否定的な意見が多いですが、好きじゃない人の間でも、ラストと曲だけはいいと褒められています。そして、このラストは神龍と一緒に空へと旅立った悟空がその後どうなったのか説明されずに終わります。

 GTの例のように、疑問を残したまま終わるような作品は、ファンの間で語りの種になりますし、読者の中で色々考えさせられるような物になるため、評価されていることが多いです。これの他にも上であげた『燃ゆる女の肖像』も同様です。


 さて、ハナヤマタに話を戻します。ハナヤマタもそうです。5人でステージに立つことが出来たということも、もちろんいいことでしょう。ですが、上記でも言いましたが、ハナヤマタにおいてよさこいを踊ること自体よりも、それについて何を感じたかの方が大きい作品です。つまり、この作品の最終的なメッセージ性は、このイベント出場でキャラクターが何を感じたかであり、今回取り上げている2つの会話に集約されていると言えるでしょう。

 そして、今まで風景や表情で詩的に表現していた本作で、文章をそのままの意味だけで捉えるようなラストを飾るでしょうか。自分は否定的に感じます。つまり、先ほどの悟空がどうなったのかわからないまま終わるGTのラストのように、この作品のラストも、それっぽい雰囲気の余韻のまま、メッセージ性を直接伝えずに、読者が考える余地を残したまま終わるようにしたかったのではないかと思います。



 なので、こっから先は自分が思う個人的な解釈で、決してそれが正しいと言う訳ではないと言うことを念頭に置いて読んでください。

 このラストの2つのセリフにおいて、まず両親の方から取り上げていきます。母親は飛行機に乗る前のシーンにおいても「友達が待っている」と言っていますし、祭りを見ているシーンでも「友達に嫉妬しそう」と言っています。このため、大切な物が友達であると思うかもしれません。もちろんそれもあります。

 ただ、個人的にはそれだけではないと思います。その根拠として、ハナは決してアメリカに友達がいないという訳ではないでしょう。つまり、ここで言っている「大切な物」とは友達+αです。それが何なのかということ、それは、なるのセリフとリンクしてきます。

 なるのセリフは、おおざっぱにまとめると、メンバー4人が一緒にいてくれることへの感謝と今踊っていることの楽しさです。ただ、もちろんこれも言葉通りの意味ではないと思います。ハナ、マチはともかく、他2人は前からなるとは一緒にいたので、そう捉えてしまうと、何も変わってないことになります。では、なぜそれに感謝して、楽しいと複数回いうほどになっているかというと、これが、ハナの両親の大切な物と繋がります。

 それは、友達という身近な物の楽しさや大切さに気付いたという点です。これは、この作品においての最終的なメッセージでもあると思います。

 ハナヤマタのキャラクターは、最初は今の自分にはないより大きな存在に憧れています。なるであればだれも自分を知らない場所に行ければと思っているし、ヤヤはバンドで活躍していたいと思っています。このように、どのキャラクターも最初はまだ見ぬ自分への憧れがあります。
 でも、他のキャラクターと触れ合っていくうちに、心の中に秘めていた思いだったり、他人のために役に立ちたいという気持ちを知っていく間に、自分たちはこの人たちと一緒にいたから楽しかったんだと気づいていくのです。
 これは22組目「グレープフルーツジュース。」において、タミがなるたちにヤヤが嫌うはずがないと言っている所や(3巻P155)、13組目「swan lake-後編-」において、一緒に泣いたり笑ったりしてくれるのはと思っているのを根拠としています。この2つのシーンはキャラクターの性格を位置づける上で大きな役割を果たしているシーンと言えるし、根拠としては強力であると言えるでしょう。

 つまり、あのシーンは彼女らにとって、一緒に入れる友達がいることの幸せを見つけられて、その中にいると言うことへ感謝しているのです。これは、話が終わった後に、35組目「よさこい部・ザ・パーティ危機イッパツ!?」において、なるがいつかこの楽しみが終わってしまうと悩んでいるのも根拠となるでしょう(6巻P14)。

 よって、この漫画の全体としての話は、自分のアイデンティティの確立のために、より大きな夢を探している少女たちが、衝突を繰り返していく中で、自分の中の居場所を身近な場所の中に見つけていくという話であると言えます。

⑥まとめ


 さて、これで自分がハナヤマタを絶賛している理由が伝わったでしょうか。まとめると、
①キャラクターが話に組み込まれる前に、ちゃんと内面や葛藤を描いている
②キャラクターの表情が豊か
③風景の描かれ方が芸術的
④キャラクターの内面が現実的
⑤最終的なメッセージ性が詩的である
というような感じになります。

 もし、他の魅力があると言う意見などがあれば、ぜひコメント欄などで教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします。

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