満たされていない帰属欲求
俺はこれまで、過去の嫌な記憶を山本で上書きし、自分がやりたいと思うことをやって、自分の思い描く理想へと突き進んできた。
そうやって、想像の世界で生きた。
それは心地よかった。自己実現欲求の世界だ。
想像の世界には、俺と山本しかいない。
理想の俺と、山本しかいない。
だがふと、現実に戻される時がある。
それがどういう時か分かった。
現実の、満たされていない帰属欲求に気づいた時である。
とりあえず、前向きに過ごすために、この帰属欲求は満たされていることにした。
帰属欲求とは、他人とつながりたい、集団に属したい、受け入れられたい。
コミュニティの一員として、そこに存在したいという欲求である。
「愛情と所属の欲求」と表現されることもあるらしい。
俺がフィクションのキャラなら、フフフッ…と乾いた笑いを漏らしているところだ。
フフフッ…感じたことねえよ。
他人とつながっている。集団に属している。受け入れられている。
そういうことにしてきた。
だが現実はそうじゃない。そう感じたことがない。
俺にそれを感じる能力がない。
そこに気づくと、一気に帰属欲求の世界に落ちる。
想像の世界なら、山本を信頼出来る。
だが現実の俺では、山本を信頼出来ない。
仮に山本がリアルに現れて、俺にどんなに優しくしてくれようが、俺はリアルの人を信用できない。俺の好きなロマンチックな言葉「あなたは私を失望させることはできない」を言われて、俺も相手に言ったとしても、もう俺を人にさらけ出せない。
山本は俺を悪いように人に言いふらしたりはしない、そう思ってはいるが分からない。それをされたら俺は山本に失望する。したくないから、その原因を作りたくない。
どんなに愛して愛されようが、リアルで信用するのは無理だろうと思う。死ぬまで続く。
恋人が死ぬとき「ずっと心をひらいてくれなかったね」というシーンが、後味悪い感じとしてよくある。
俺はそれを恋人にする奴だと思う。だから人付き合いは駄目だ。
信頼感がなければ愛は得られない、とどこかで見たことがある。
まずは自分を信じて、相手を信じる。
人を愛するには、相手は自分を受け入れてくれるという信頼感が必要だ。
受け入れてくれる、この帰属欲求、周囲への信頼感が、俺には致命的に足りない。備わってない。
駄目なんである。信頼出来ない。
人と何か一緒にして、「楽しかった」と言えない。
涙が出る。人に「楽しかった」と言って、返ってくると思う答えは、「そう?全然楽しくなかった」だ。
人を全く信頼していない。だから人に「楽しかった」が言えない。
想像の世界の俺は、山本に「楽しかった」と言える。
すると山本は「僕も楽しかったです」と微笑みながら返す。
これがない。この信頼感や、愛のある関係がない。
俺が「楽しかった」と言えば「全然楽しくなかったよ」と返ってくる。
そういう世界で生きている。それが現実の俺の世界だ。
いや現実の、俺の頭の中の世界だ。
俺は現実で「楽しかった」とは言っていないんだから。
俺の好きな何かしらの話も、駄目だ。
俺の好きな食べ物を人に話したら「あれ不味かったよ」と言われると思う。
「面白くなかったわ」「なんか微妙だった」と言われると思う。
俺と一緒にいたら、何だか相手の品位が下がるような気がする。
好きで俺と一緒にいる奴なんかいない。
そんな風な妄想に囚われる。
妄想。妄想である。悪い妄想だ。
今だからこう思える。今は想像の世界の俺だから。
人に「楽しかった」と言えば「僕も楽しかった」と返ってくる世界だから。
受け入れられ、信頼感があり、帰属欲求は満たされて、承認欲求を超えた自己実現欲求の世界にいるから。
「楽しかった」と言って「全然楽しくなかった」なんて返してくる方がヤベえだろ、と思えるから。
だが現実は、「全然楽しくなかった」が正しい世界だ。
「僕も楽しかった」なんて一度もない世界。
人と、つながっていない、属していない、受け入れられてない。
現実には、帰属欲求を満たす成功体験がない。
俺を受け入れてくれる、と思える人はいない。
愛情、所属と聞くと、思い浮かぶものがある。
愛情ホルモンの「オキシトシン」である。
昔、調べたことがあった。その中で、こういうことが書いてあった。
これもラットを用いた実験で、オキシトシンを注射した個体を群れのなかに放すと、その後群れとして行動することが増えました。つまり、個体同士があまり争わなくなり、「仲間意識」を強めるような行動が観察されたのです。
先に、オキシトシンがもたらす「仲間意識」について触れましたが、オキシトシンは個体の「識別」にも関係があるようです。
これもラットを用いた実験で、一対にしたラットの片方にだけオキシトシンを注射し、いったん群れに戻します。群れに戻してしまうと、ふつうは一緒にいた相手がわからなくなります。でも、オキシトシンを打ったラットは、一緒にいた相手を探し当て、近くにうずくまるといった行動が観察されたのです。つまり、オキシトシンは仲間と仲間ではない者を見分ける能力にも関わっているといえるのです。
自分の仲間を見分けられるということは、逆にいえば「仲間ではない者を排除する」ことにつながることがあります。オキシトシンの効果には、正負両面があるというわけです。
「仲間ではない者を排除する」ここである。
愛情と仲間意識を司るオキシトシンには、所属していない者を排除する働きがある。
そして、
俺は、仲間でも仲間じゃなくても正直どっちでもいい。一緒にいたければいればいいし、どこか行きたかったらさようならって感じ。
まったく他人を傷つけることなく、親切で優しくて、良い人なのが俺だよ。
誰にでも分け隔てない、優しくて良い人。それが俺だ。
現実の俺は誰にでも分け隔てない、優しくて良い人、になっている。
これはオキシトシンが、その受容体が、帰属欲求が、満たされてないからだ。
実際は羞恥、凌辱、調教、ス○ト○がいちゃラブのシチュエーションになるえげつないサディストである。
まあ俺は優しいよ。
優しいが、排除しないだけで、受け入れるわけじゃない。
そもそも所属感がないんだから、排除することなんかない。
しかし仲間意識もないんだから、受け入れることもない。
仮説として、
俺は、家族や友達、学校、社会から受け入れられた体験がなかった。
その環境化で、オキシトシン受容体の密度が極端に低かった。
だから俺には、愛情と所属感を受け取る能力が不足している。
結果として、帰属欲求が満たされない。
満たすことが出来ないので、とりあえず想像の世界で満たした。
そういうことにして、自己実現欲求に到達した。
そしてふと、想像と現実の乖離に気づく。
帰属欲求が満たされていないことに気がつく。
成長欲求である自己実現欲求より、退行する帰属欲求に意識が向く。
段階が下がる。退行欲求に支配される。
眠くなってきたのでやや強引に締める。またじっくり書きたくなったら書く。
俺にとって帰属欲求は過去であり、退行欲求だ。
愛や所属を求めると俺は退行する。
しかしこれが現実である。帰属欲求で止まっているのが現実の俺だ。
自己実現欲求は、未来であり、成長欲求だ。
愛や所属をあることにすれば、俺は成長する。
しかしこれは、想像である。想像の世界の話で、現実ではない。
だが調子がいいのは、成長欲求に従って生きている時だ。
感情を素直に表現して、好き嫌いの線引きをしっかりとして、サディストの俺として生きている時だ。
俺は山本とつながって、山本と共にいて、山本に受け入れられている。
俺自身を信頼して、山本も信頼出来る。そして世界も信頼している。
そう感じられている時が、一番調子がいい。