嫌い4

何かあっても、俺は平気である。
何事もなく過ごせる。嫌いな奴とも普通に話せる。
全然平気だし、キツくない。
でも平気じゃないし、キツイ。

俺は別に平気である。何事もない。
別に普通に、何もなく過ごせる。
全然平気じゃないし、すげえキツイ。

なんか、全然平気なんだよな。
何も辛くない。辛いわ。
そろそろ限界がきそう。何で急にこんな畳み掛けられてんだ俺は。

全然平気なんだけど、全然平気じゃないんだよな。
全くキツくないけど、すっげえキツイ。
何も辛くないんだが、何もかもが辛い。

何書こうとしてたんだっけなあ。
何か色々あったんだが、辛いことしかねえわ。
すげえ泣きたかったが、家まで我慢してたら出なくなった。
泣いてないから、じゃあ辛くないか。
そんなわけもなく、俺は今辛い。

いつから俺の感じたことに点検が必要になったんだ。
あ、俺は腹の立つことをされたんだな、と思わないと腹が立たない。
じゃあ腹立ってないんじゃないの、何も気にしてないんじゃないのか。
そんなわけなくて、俺は腹立たしかった。


「隔離」という防衛機制をよく使うパーソナリティを知った。
BIG5の、協調だけ低く、他は高いことのパーソナリティの関連性を知った。
腹にほくろが多いのがどういう奴か、縦線の上がかなり突き出た筆跡がどういう奴なのか知った。

逃げられないと思った。
嘘くせえ。嘘であってほしい。いつもここで逃げたくなる。
顔も身体も、考え方も癖も、全部が同じものを示してる。
ただの俺の理想だったらよかった。
俺がそう憧れてるだけで、俺は無理しててなんか
駄目だ泣けてきた。
俺がそういう奴だと分かるたびに、嬉しくなると同時にクソ惨めな気持ちになる。

俺がビジネス書をガンガン読み進めてしまうのは、俺が肯定される場をやっと見つけたからだ。
俺にとっての普通がそこに書いてあった。
簡単なことしか書いてなかった。
すでに出来てることも多かった。
やってみましょう、と言われるまでもなくやってた。
誰も認めてくれないそれを、その世界では認めてくれてた。
惨めだ。


俺の周りは、"仲良し度"、"人当たりの良い度"で全てが決まった。
"おしゃべり度"が低ければ人間の屑。使えねえ奴。仕事が出来ねえゴミ。
そういう扱われ方をしてきた。つまらねえゴミ、信用出来ないクズ。

俺が勘違いした背景にはこれがある。おしゃべり度。
おしゃべり度が低ければ、仕事が出来ない奴になった。
ビジネス書にはそんなこと書かれてない。
至極当たり前のことが書いてある。
仕事が出来る奴が評価される。目標を達成した奴が評価される。
ゴマすりケツ舐め野郎になる必要はない。

仕事をしても褒められなかった。
浮かれおしゃべりゴマすり野郎が評価されてた。
俺も大の苦手なゴマすりに尽力した。
おしゃべり度はあがらなかった。
評価は変わらなかった。
俺の仕事は軽視されて、クソ野郎の仕事は評価された。

俺の長所は仕事に特化した能力なのに、それが評価されたことはなかった。
だから勘違いした。評価されないんなら俺の出来が悪いんだと思った。
そうじゃねえよ、俺が嫌いなあいつらは、仕事の出来を見ていなかった。
好き嫌いで評価していた。俺はあいつらが嫌いだ。不快で仕方がねえよ。

俺の価値観は仕事が出来る奴はカッコいい、だ。
あいつらの価値観は人とのつながりが一番、だ。
あいつらの価値観の中で、俺は評価されなかった。
それを俺は自身の価値観で評価した。
それで自己評価が「仕事の出来ねえ惨めな奴」になった。
だが正しく見れば「無駄に人とつながらない仕事の出来る奴」だ。
かっけえ。

自己認識に他者評価はいらねえと思う背景はここにある。
人から見れば、俺は優しくて誰にでも分け隔てない良い人らしい。
俺は別に優しくねえよ。当たりさわりねえように言いやがって。
俺のことを知らないなら知らないと言えよ。


辛かったね、と言われたかった。
それがあればここまで落ち込むこともなかった。
俺の出来が悪いんだと思い込まされることはなかった。
嫌だったね、辛いね、って言われたかった。
そう言われていれば怒りも涙もコントロール出来た。
こうまでぐちゃぐちゃにならなかった。

人と仲良しでいられないことに悩むこともなかった。
俺は俺のままでいいのだと思えた。
俺の長所が長所のままで生きてこれた。

"みんな仲良し"の価値観では、俺の長所は短所になった。
"みんないっしょ"でなければ済まなかった。
そのせいで、能力が高い奴と低い奴は苦しむことになった。
嫌々やる奴もいた。俺は不快になった。
だが"みんな仲良し"で生きていかなければならなかった。

みんないっしょ、平等な世の中なんかあり得ねえよ、と思う。
なんで、こんなに平等の尊さが声高に叫ばれてるのに、それが実現されねえのか。
なんでこんなに平等になるように色々と手を加えられてるのに、いつまでも実現されねえのか。
人間は平等じゃねえからだよ。平等じゃねえのが自然だからだ。
強い奴、弱い奴、普通の奴、色々いるのが人間の自然であって、平等なんかあり得ねえんだよ。
何をやったって強え奴は強い。弱い奴、普通の奴もそうだ。
もういい加減にしてくれよ。
みんな一緒、なんてそんな時代来ねえよ。強制でもしない限り来ない。
分かるかよ、平等を望むのはディストピアを望むのと一緒だ。
俺はそう思ってる。

俺はみんな仲良し、みんなで一緒に、が嫌いだ。
「なんでみんなと話さないの?」
「ああ…話すの苦手なんですよね」
今まではこうだった。別に苦手じゃねえよ。話すわ普通に。
お前らのことが嫌いだからだよ。
お前らと話すことがねえからだ。
おしゃべり度の世界で生きとけよ。大嫌いだお前ら。不快だ。


「嫌い」の一連の日記は、加藤諦三先生の「「本当の自分」はどこにいる」を読んで書いた。
嫌いを強く意識して、自己分析が深まった。

嫌いな価値観にずっと振り回されていたなあと思う。
俺が大切にしていない価値観でもってずっと生きてきた。
原因不明の不快感はこれだった。
俺と周りの価値観が違う。
俺は、仕事してるんだから、仕事の出来で評価されるのが普通、だった。
まさか、そうじゃないとは思わなかった。
自分にとってあり得ないことが起きている、そう認識しなければ駄目だ。
そしてその状況は不快、あいつは嫌いだ、と思わないと正しい認識が出来ない。自分が見えてこない。

嫌いな奴に対して、好きな人と同じように接していたのが俺である。
誰に対しても、好きな人と同じように接していた。
これは不快である。嫌いな奴から好かれようとする、生かされようとする。
これほど不快なことはない。これほど惨めで屈辱的なことはない。

腹の立つことをされたら腹が立つ。これが普通。
嬉しいことをされたら嬉しくなる。これも普通。
腹の立つことをされても、嬉しいことをされても、自分がどう反応していいか分からない。
相手に好かれなければならないので、反応する前に身構えて緊張する。
これは普通ではない。
こういうことが起きていたのが俺である。

就活サイトで適性検査2の記事の俺を見ると、ああなんか、わかりあえそうと思う。
俺に対して初めてこう思えた。
ちゃんと俺の価値観と感情が出ている。

「マジでなんか、よくねえよなあと思う」
「だよな、なんかよくねんだよ」
今までの俺だったら、こんな感じだ。
言葉を濁しまくってる。本心を隠している。

「マジで嫌いだわあのクズども」
「分かるわ、最悪だよな」
今ならこうなる。本心を隠す必要がない。

今後も嫌いなことと、俺の価値観を意識していく。