そうじゃなくても、愛している。

自我衝動
*0タイプ
常にどうかしなければならないと考えている強迫自我型。社会的に許されない欲求と、これを規制する欲求とが同時に存在し、繰り返し同じ問題で悩む自己愛と理想を求める心との間で、どちらとも決められない。

過去の日記

俺は山本が好きである。
山本の、優柔不断なところ、控えめなところ、シャイなところ、俺に従順なところ、俺に委ねてくるところ、むっつりスケベなところが好きである。

では仮にそうじゃなかったら好きじゃないのか

山本が、自立していないところが好きである。
家畜で弱者な、俺の庇護がなければ生きられない山本が好きである。
ではその山本が自立してしまったら俺は山本を好きじゃなくなるのか

もともとは、山本が世間一般の男性像とは少し違うところから始まっている。
そうじゃなくても好き。山本が、普通の男ではないところが好き。
山本が山本だからだから好き
山本じゃなければ、この情動は成し得ない。

ではそうでなかったらそうじゃなくなるのか
ずっとここで、悩んでいる。


そうじゃなくても好き
これが愛情である。

愛は、ある対象を肯定しようとする情熱的な欲求である

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

良いように解釈しよう。
俺が山本を好きなのは本当である。
山本に出会って、俺は"人を愛する能力"を得た。
俺は「こころ」を見れるようになっていた。
だが、いつまでも、「かたち」にこだわっていた。
それで、悩みから抜け出せていなかった。

こういうところが好き。
こういう外見だから好き。
だから、こういう人が好きで、こういう人がいい。

現実では、俺に利益があるから好き。
ここでこう関わっておけば、得になるから好き。
だから、俺も相手に得を差し出す。切れないようにする。

俺は「かたち」にこだわっていた。
ずっと記号を見ていて、人の「こころ」を見てはいなかった。

それが、ふと、興味のない記号である山本と出会った。

何も思っていなかった。
好きでも嫌いでもなかった。
優柔不断。まあ別に…そうか。
従順。そうなんだ。
むっつりスケベ。へえ。

記号単体でみれば「へえ」でしかなかった。ピンとこなかった。
それが今や、"優柔不断"と見ればあ"~~~となる。
決めてほしい」と言われれば俺の全細胞が活性化する。
これは、山本がそうだから、そうなっている。
記号じゃない山本が山本であるから記号じゃないから好きなんだ。

仮にそうじゃなくなったら。
山本が即断即決で、強情で、がっつりスケベになったら。
俺は山本を好きでいるのか。
その答えは、そうであっても山本であるなら好きである。

俺に置き換える。
俺は即断即決で、強情で、がっつりスケベだ。
その俺が、優柔不断で、従順な、むっつりスケベになるのは不可能に近い。
ああここだ。ここが俺の悩みのポイントだ。

社会的に許されない欲求と、これを規制する欲求とが同時に存在し、繰り返し同じ問題で悩む

優柔不断で、従順な、むっつりスケベな男は社会的に望まれていない…と俺は感じる感じてしまう望まれていないと思う
俺はそういう男性がすげえ好きで一緒にいたいけど、社会的にそういう男性は望まれていないというのを感じてしまう
だから悩んでる

優柔不断で、指示待ちで、むっつりスケベは超かわいいよ。
そのままでいいよ。俺はそう思うよ。
でも、これは社会的に許されない欲求で、俺の中で規制しなければならないと思ってる。

だからずっと悩んでる。ここなんだろうよ。
俺はずっと、指示待ち人間が、弱者が、優柔不断が好きだ好きだ好きだと言ってる。
そのあと、色んな理屈を出したり過去エピソードをくっつけて、そうでもない、そう思ってない、やっぱ駄目だ、と言ってる。
ずっっっと言ってる。過去日記見てびっくりしたわ。本気で好きだよ。
は~~~ドロッドロに甘えあいたいね。何でも決めてあげるよ。
俺が最善の選択をしてあげよう。俺は決めるのが大好きだからな。
人の人生握れるとか最高すぎるだろ。
大丈夫、俺はEQ180の人格者だよ、っつって。
上のことも多分前に書いてる。俺は人の人生を握りたい

でも俺は、こんなに好きだけど、社会の仕組みとして指示待ちの優柔不断は合わない。合わないんだよ。
望ましいのは、それとは逆。
指示されずとも最善の選択をする。
自分で考えて、自分の行動に責任が取れる奴。
俺みてえな奴だよ。愛について考えて、山本が俺みたいになったらどうする?って考えるとこうなる。
俺が優柔不断にならなくても大丈夫だが、山本が優柔不断なままだと大丈夫じゃないんだよ。社会的に
この社会が俺と山本の間には邪魔だが、俺はここを意識してしまうんだよ。
駄目だろ、って無意識に欲求を規制してしまう
だから悩むんだ。ずっと。
俺は好きだよ。誰が何と言おうと好きなんだ。
俺自身どれだけ否定しようが、もう無理。
俺は優柔不断で従順でむっつりスケベな男が好き

んで、じゃあ俺が庇護出来ない指示待ち人間はどうするんだよ、って話だ。
これが記号を愛する弊害だ。対象無差別な愛は無理がある。
いや、これは愛じゃない

愛は、ある対象を肯定しようとする情熱的な欲求である

記号は、"対象"じゃない。
そこに愛は存在しない。
だから、俺は「指示待ち人間」「弱者」「優柔不断」という記号を愛しているんじゃない。
そうである山本を愛している
記号じゃないから、山本だから愛している。

つまるところ、俺は優柔不断で従順でむっつりスケベな男が好き。なんじゃない。
山本が好き。なんだ。
愛は記号じゃない。
そうじゃなくても、愛している。
山本が山本であるなら好きである。


「迷惑をかけないから」愛する。
「言うことを聞くから」愛する。
「こうだから」愛する。
「こうしてくれたら」愛する。
こういう人間関係の中で生きてきた。死ぬほど、嫌だった。
俺であれば愛されなかった。俺が俺を殺した。

いつしか俺も、人に対してそういう関係を強いるようになっていた。
だから記号しか見ていなかった。
だが何か違和感はあった。「かたち」しか見ていない。
表面しかなぞっていない。何か虚しい。安定しない。
記号から外れれば、すぐイラついて、落ち込んで、関係を切った。

そういう時に、なんでもない記号に会った。
そこから、記号じゃなくて山本になった。
「かたち」じゃなくて「こころ」を見れるようになっていた。
そこに気づけずにずっと「かたち」にこだわっていた。

俺は、俺が思うよりずっと大人になれてきている。
そこに人からの承認を必要としなくなった。
人から「成長した」と言われずとも、俺は「成長した」
今までは、「成長したな」と認められなくては、そうなれなかった。
人からそう言われなくても、俺はそうである。
そういうことに最近気づいた。