そうじゃなくても、愛している。
俺は山本が好きである。
山本の、優柔不断なところ、控えめなところ、シャイなところ、俺に従順なところ、俺に委ねてくるところ、むっつりスケベなところが好きである。
では仮に、そうじゃなかったら、好きじゃないのか。
山本が、自立していないところが好きである。
家畜で弱者な、俺の庇護がなければ生きられない山本が好きである。
ではその山本が、自立してしまったら、俺は山本を好きじゃなくなるのか。
もともとは、山本が世間一般の男性像とは少し違うところから始まっている。
そうじゃなくても好き。山本が、普通の男ではないところが好き。
山本が山本だから。だから好き。
山本じゃなければ、この情動は成し得ない。
ではそうでなかったら、そうじゃなくなるのか。
ずっとここで、悩んでいる。
そうじゃなくても好き。
これが愛情である。
良いように解釈しよう。
俺が山本を好きなのは本当である。
山本に出会って、俺は"人を愛する能力"を得た。
俺は「こころ」を見れるようになっていた。
だが、いつまでも、「かたち」にこだわっていた。
それで、悩みから抜け出せていなかった。
こういうところが好き。
こういう外見だから好き。
だから、こういう人が好きで、こういう人がいい。
現実では、俺に利益があるから好き。
ここでこう関わっておけば、得になるから好き。
だから、俺も相手に得を差し出す。切れないようにする。
俺は「かたち」にこだわっていた。
ずっと記号を見ていて、人の「こころ」を見てはいなかった。
それが、ふと、興味のない記号である山本と出会った。
何も思っていなかった。
好きでも嫌いでもなかった。
優柔不断。まあ別に…そうか。
従順。そうなんだ。
むっつりスケベ。へえ。
記号単体でみれば「へえ」でしかなかった。ピンとこなかった。
それが今や、"優柔不断"と見ればあ"~~~となる。
「決めてほしい」と言われれば俺の全細胞が活性化する。
これは、山本がそうだから、そうなっている。
記号じゃない。山本が山本であるから、記号じゃないから、好きなんだ。
仮にそうじゃなくなったら。
山本が即断即決で、強情で、がっつりスケベになったら。
俺は山本を好きでいるのか。
その答えは、そうであっても、山本であるなら好きである。
俺に置き換える。
俺は即断即決で、強情で、がっつりスケベだ。
その俺が、優柔不断で、従順な、むっつりスケベになるのは不可能に近い。
ああここだ。ここが俺の悩みのポイントだ。
優柔不断で、従順な、むっつりスケベな男は社会的に望まれていない…と俺は感じる。感じてしまう。望まれていない、と思う。
俺はそういう男性がすげえ好きで一緒にいたいけど、社会的にそういう男性は望まれていない、というのを感じてしまう。
だから悩んでる。
優柔不断で、指示待ちで、むっつりスケベは超かわいいよ。
そのままでいいよ。俺はそう思うよ。
でも、これは社会的に許されない欲求で、俺の中で規制しなければならないと思ってる。
だからずっと悩んでる。ここなんだろうよ。
俺はずっと、指示待ち人間が、弱者が、優柔不断が好きだ好きだ好きだと言ってる。
そのあと、色んな理屈を出したり過去エピソードをくっつけて、そうでもない、そう思ってない、やっぱ駄目だ、と言ってる。
ずっっっと言ってる。過去日記見てびっくりしたわ。本気で好きだよ。
は~~~ドロッドロに甘えあいたいね。何でも決めてあげるよ。
俺が最善の選択をしてあげよう。俺は決めるのが大好きだからな。
人の人生握れるとか最高すぎるだろ。
大丈夫、俺はEQ180の人格者だよ、っつって。
上のことも多分前に書いてる。俺は人の人生を握りたい。
でも俺は、こんなに好きだけど、社会の仕組みとして、指示待ちの優柔不断は、合わない。合わないんだよ。
望ましいのは、それとは逆。
指示されずとも最善の選択をする。
自分で考えて、自分の行動に責任が取れる奴。
俺みてえな奴だよ。愛について考えて、山本が俺みたいになったらどうする?って考えるとこうなる。
俺が優柔不断にならなくても大丈夫だが、山本が優柔不断なままだと大丈夫じゃないんだよ。社会的に。
この社会が俺と山本の間には邪魔だが、俺はここを意識してしまうんだよ。
駄目だろ、って無意識に欲求を規制してしまう。
だから悩むんだ。ずっと。
俺は好きだよ。誰が何と言おうと好きなんだ。
俺自身どれだけ否定しようが、もう無理。
俺は優柔不断で従順でむっつりスケベな男が好き。
んで、じゃあ俺が庇護出来ない指示待ち人間はどうするんだよ、って話だ。
これが記号を愛する弊害だ。対象無差別な愛は無理がある。
いや、これは愛じゃない。
記号は、"対象"じゃない。
そこに愛は存在しない。
だから、俺は「指示待ち人間」「弱者」「優柔不断」という記号を愛しているんじゃない。
そうである山本を愛している。
記号じゃないから、山本だから愛している。
つまるところ、俺は優柔不断で従順でむっつりスケベな男が好き。なんじゃない。
山本が好き。なんだ。
愛は記号じゃない。
そうじゃなくても、愛している。
山本が山本であるなら好きである。
「迷惑をかけないから」愛する。
「言うことを聞くから」愛する。
「こうだから」愛する。
「こうしてくれたら」愛する。
こういう人間関係の中で生きてきた。死ぬほど、嫌だった。
俺であれば愛されなかった。俺が俺を殺した。
いつしか俺も、人に対してそういう関係を強いるようになっていた。
だから記号しか見ていなかった。
だが何か違和感はあった。「かたち」しか見ていない。
表面しかなぞっていない。何か虚しい。安定しない。
記号から外れれば、すぐイラついて、落ち込んで、関係を切った。
そういう時に、なんでもない記号に会った。
そこから、記号じゃなくて山本になった。
「かたち」じゃなくて「こころ」を見れるようになっていた。
そこに気づけずにずっと「かたち」にこだわっていた。
俺は、俺が思うよりずっと大人になれてきている。
そこに人からの承認を必要としなくなった。
人から「成長した」と言われずとも、俺は「成長した」
今までは、「成長したな」と認められなくては、そうなれなかった。
人からそう言われなくても、俺はそうである。
そういうことに最近気づいた。