「無垢の祈り」はいいぞ。

映画「無垢の祈り」が再上映されると言うので公開当時書いた映画評のリンク探したらいつの間にか産経ironnaのサイトが終了してたw。なのでこっちに再掲。


 「無垢の祈り」という異様な、いや、異常なR18映画が注目を浴びている。見た人々の感想を聞いてみると、「グロい」「キモい」「救いがない」と否定的な言葉が真っ先に飛び出してくる。しかし、それでも彼らは再び映画館を目指す。「無垢の祈り」にはそんな麻薬的な魅力があるようだ。とりあえず価値観にせよ感情にせよ、今まで確固たるものだと思い込んできた様々なものが「揺さぶられる」稀有な作品であることは間違いない。
 「無垢の祈り」は間違いなく「キツイ」映画である。一言で言ってしまえば、「幼女虐待」「ロリコン」映画とでも言うべきか。そのような内容故に、本作は全国の殆どの映画館からは上映を拒否されてしまい、僅かな小劇場でしか見ることが出来ない。何しろ制作時にはスポンサーになってもらえる所がどこも現れず、監督の亀井亨が自腹で撮影にこぎつけたのだと聞く。その後もどこの配給会社も難色を示し扱ってもらえなかったため上映さえままならず、昨年9月の「カナザワ映画祭 2016」においてようやく日本初公開となったといういわく付きの作品だ。
 そうした児童虐待映画のようなものを許さぬ「日本の良識」や「ポリティカル・コレクトネス」からいわば総スカンを食らった「無垢の祈り」であるが、カナザワ映画祭において本作を観た人々の衝撃はただならぬものがあり、インターネット上の口コミ等により大いに話題となった結果、私も再度観に行くつもりでいる3月12日からの名古屋シネマスコーレにおける再上映等、全国各地の小劇場で異例のアンコール上映が続いている。

 「無垢の祈り」には元々、原作小説が存在する。ミステリー作家・ホラー作家としてカルトな人気を誇る平山夢明の短編集「独白するユニバーサル横メルカトル」(光文社)収録の30ページ足らずの作品「無垢の祈り」がそれである。平山はこの短編集にて、2007年度「このミステリーがすごい!」国内部門一位の栄誉に輝いている。
 10歳の小学生である主人公のフミは、家庭内で実母と義父から虐待を受け続ける悲惨な境遇にある。義父は幼女にいたずらをして刑務所に入れられていた過去があり、フミを毎日のように殴るばかりか、性的な慰み物にしようとする。フミの母はそんな夫を止めるどころか、カルト宗教にハマった挙句にフミを教団や夫に差し出す始末。家庭から外に出ても、虐待で始終体中怪我だらけのフミは学校のクラスメイトから「おばけ」といじめを受け、先生もフミへのいじめに関わろうとせず、近所の変態オヤジからも性的にいたずらされ、休まる場所などどこにもない。
 そんな中、フミの住む生き地獄の町で連続殺人事件が発生する。学校で先生が生徒たちに注意喚起しクラスメイトたちが怯える中、フミだけは連続殺人鬼に恋い焦がれ、殺人現場を訪れては「あいたい」とメッセージを残していく。
 そんなある日、いつものように殺人現場に忍び込んだフミは、事件を担当する刑事に見つかり、ああいう人間は捕まえなければいけないと諭される。虐待されるフミにとって何の役にも立たぬそんな良識的な刑事に対し、「みんな死ンじゃえばいい。みんなあの人に殺されちゃえばいい」と吐き捨てて逃げ出すフミ。
 そんなフミに、ついに義父は牙を剥き、誰もいない廃工場に追い詰められる。そして……。

 と、ネタバレになってしまうので結末は書けないが、観た人々の多くにとってはホントの本当に救いが無い作品だ。だが私は、原作小説の結末には実はある意味大いなる「救い」を見た。これはトランプ現象と一緒ではないかと。
 アメリカのトランプ支持者は、偉そうに「反差別」だの「難民受け入れ」だのと「正義」を押し付けるサヨクやリベラルに対してうんざりしている。仕事を失ったりして経済的にも追い詰められているトランプ支持者にとって、そんな正義ヅラしたリベサヨ連中なんぞ腹の足しにもならないどころか、自分たちの尊厳さえ「正義」の名の下に攻撃的な言葉で、いや場合によっては実力行使で「強姦」する強姦魔に過ぎない。
 そこに颯爽と現れたのが、連続殺人鬼のトランプだ。フミが「良識派」刑事に対し、「みんな死ンじゃえばいい。みんなあの人に殺されちゃえばいい」と吐き捨てた時の気持ちは、トランプ支持者の気持ちと重なるのではなかろうか。
 だれも助けの手を差し伸べてくれないどころか口先だけの正義を語る邪悪な連中ばかりでまわり中敵だらけ、ドンヅマリのこの世界を圧倒的な暴力によってぶち壊してくれるヒーローの登場に恋い焦がれる。それは何も、幼女虐待の犠牲者である10歳の少女の歪んだ幼稚な願望として片付けられるべきものではない。しかしサヨク・リベラル連中がトランプ大統領誕生後も厚顔無恥にもやり続けていることは、「殺人鬼に憧れるフミは愚民!」と罵り蔑むの同様の行為だ。
 別にトランプ支持者だけに限らない。日本においても、経済的にも政治的にも大いなるドンヅマリ感が蔓延する中、正義を騙りポリコレ棒を振りかざして来たリベサヨ連中への反感もあり、殺人鬼のようなダークヒーローを求める土壌は既に整っていると言わざるを得ない。そんな閉塞感でがんじがらめとなり一向に明るい未来が見いだせぬ人々にとっては、「無垢の祈り」は他に類を見ぬカタルシスをもたらしてくれる作品となっている。

 映像化にあたり、監督の亀井亨は原作小説での描写にいくつかの大きな変更を加えている。例えば小説では殺人鬼による死体解体などというグロシーンは全く出てこない。あくまで間接的に「身体がふたつに切断され、置かれていたのだという」などと記述されているだけである。しかし映画においては、殺人鬼「クスオ」役のBBゴローが、血の海の中で死体を丹念に解体作業する様子が「丁寧に」描かれる。私などはそれをただのグロい猟奇的なシーンというよりも、生真面目な職人の「いい仕事」シーンにさえ見えた。そう、ナチスのガス室で生真面目な官僚としてユダヤ人虐殺を淡々と有能に遂行したアイヒマンのような。
 小説は小説で素晴らしかったが、こうした亀井監督の解釈による変更は、総じてプラスの効果を生み出している。例えばフミが自転車で公道を爆走するシーンなどは、家庭にも町にもどこにも休まる場所がない彼女にとって、自転車に乗っている時だけが全てを忘れられる瞬間なのだということがひしひしと感じられる名シーンである。
 そして最大の変更点が、フミの「救い」としても解釈することができるラストシーンであるが、小説と映画とどちらのラストがお好みかはそれぞれの判断におまかせしたい。ただ舞台披露の際に直接お聞きしたところによると、亀井監督のおっしゃるには「僕的にはエンディングは原作小説からは変えていない。映画では、小説エンディングを30秒延長しフミの望みの叫びを描いてる」のだそうだ。
 ただ難を言えば、いきなり何の予備知識もなく一度映画を見ただけでは、消化不良に終わる可能性がある。場面ごとにセリフ等で言語化されていない「仕掛け」が多く、高度なリテラシーが必要とされるためだ。そうならぬためには、できれば平山夢明の原作小説に目を通してから劇場に赴くか、一度ではなく二度三度と繰り返し映画を観て頂きたい。繰り返すごとに、新たなる発見があることうけあいである。
 その意味で「無垢の祈り」は、かつて私がironnaの記事「ディズニーに騙されるな!オバマの米国を暗示するズートピアの奥深さ」(http://ironna.jp/article/3389)でも書いたように、映画「ズートピア」と似たような深い楽しみ方ができる作品である。その観られ方がトランプ現象と大いに関連がある点も共通している。
 「無垢の祈り」は、アメリカで既に起きてしまったトランプ現象、そして日本でもこれから起こるである同様の現象を考える上で、極めて重要な作品である。この名作映画を我が国の主要映画館や配給会社、そしてサヨク・リベラルが「ポリティカル・コレクトネス」の名の下に目を背けるばかりか排除し続けている。彼らこそ作品中でフミに愛情を持っているように偽装し「正義」を騙りつつフミを虐待する「フミの母親」や「フミの義父」そのものなのである。そのことをいつまでも自覚・反省せず今まで同様にポリコレ棒を振り回し続ければ、連中はフミが望んだように手痛いしっぺ返しをされた上で、日本のトランプを生み出した戦犯として永遠に後世の歴史家に記憶されることになるであろう。


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