ティファニーでiPhoneを

ティファニーで朝食は食べられない。iPhoneも買えない。今の日本人はそういう状態で苦しんでいるのだと思う。
浜松さんのスペースで、そういうような話をしたのでメモ。

53歳引きこもり中年童貞で毎日幸福なオラは小中学の頃からすでに、そういう生活を目標にしていた。

読書だけできれば、モテなくても低収入でも幸せだった。独房で美味しいものも食べられず、女の子と面会もできなくても、(刑務作業もせず)一人読書だけできれば天国だった。
現在は(貧乏でハゲの中年童貞なのに)女の子にモテるし、Uber Eatsとかで美味しいものも食べられる。

夢の独房生活をはるかに超える幸せをゲットしている。
でも高専や大学時代の1980年代あたりにそんな夢を口にしていたら、「異常者」「普通じゃない」と非難され圧殺されていたであろう。何しろ「良い大学行って、大企業に終身雇用され、結婚して良い家庭を築く」ことが「あたりまえ」。

そう誰もが信じるバカな国、時代だったのだから。
そんな中で、オラが「説得」されず夢を貫き通せた理由はなにかというと、小学生時代にはすでに読書好きだったからだ。今の国、時代の「常識」が当たり前じゃなかった時代があった、国があるということを情報で知っていた。

だからこそ、「お前ら無教養無知な大人が叫ぶ常識、普通、あたりまえなど知らんがな!」と自信を持って言えたのだ(嫌なガキだw)。だから強くなれた。
現代はインターネット等のおかげで、「日本の常識が世界の常識ではない」ことが、オラの幼少期よりは比較的容易に知ることができるようになった。

まだ全然不十分ではあるが。
世界初のデパートが、いつどこに作られたかは知らない。多分19世紀のイギリスとかなのだろう(ウィキれば一発の良い時代だ)。そこの当時のお客さんは、「インド紅茶欲しい」とか「パリの香水買いたい」とか、様々な欲望を持っていたり、新たな欲望を喚起されたのだ。

しかし、当時の誰一人として、「iPhoneが欲しい!」とか思っていなかったに決まっている。だって、デパートに売っていないのだから。ジョブズがiPhoneを買えるように頑張ってくれたから、今の我々は「iPhoneが欲しい」と欲情wできる。存在しないものを「買いたい」「欲しい」とも欲情はできない。

ゆえに、オラが子供だった当時、ほとんどの日本人は「大人になったら仕事も結婚もせずに好きな読書だけやって一日中朝から晩まで引きこもる」なんてことイメージできたはずも欲望できたはずもない。だってそんな商品、デパートに陳列してくれていないもの。大人が提供してくれないんだもの。

でもオラは、そういうものがどこかの国、どこかの時代のデパートに売っているという事実を知っていた。だから欲しがれたし、それを買うための計画も練ることができた。小学五年生の時にはすでに、「がんばって受験勉強しなくても、働かなくても、好きな読書だけできる方法」を探したり、計画してた。

それができた。なぜなら、それをデパートで買いたかったから。それが売っているデパートがどこかにあるということを、あったことを知ってたから。
知識は力だ。そのための有力お手軽な手段として、読書は重要なのである。オラの場合その事実に小学生の時には気付くことができたという優位性があった。

「重要な手段としての読書=最高に好きのもの」だったというたまたまのラッキーが重なった。オラは運が良かった。神様、ありがとう。

「私は読書に夢中なの」。

トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」(新潮文庫) https://amzn.to/3yFS5lE

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