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中道祭礼物語

お神輿や太鼓山車の運行など中道通りの秋祭りを運営する地域のお祭り好きの方々と商店会の会員で構成される祭礼団体、「中道祭礼」について記します。

お神輿に神様をのせて

吉祥寺秋祭りは、昨年2022年(令和4年)に第50回という節目の年を迎えました。吉祥寺でお神輿を担ぐようになった理由はきっといくつもあったと思いますが、一番大きかったのは、高円寺をはじめほかの駅周辺の商業エリアに負けないお祭りを作りたいという先人たちの想いでした。
始まった当時、この地で商いしている方々は皆さんこの地に地縁のある方がほとんど。武蔵野八幡宮を氏神様として敬い、氏子としてお神輿を担ぎ上げ、地元吉祥寺の安心安全と商売繁盛を祈念し、地域の一体感を醸成する年に一度のお祭りに、皆さんが心血を注いでいらっしゃったと、ボクは先輩から何度も聞かされて来ました。
そしてその先人たちの想いがほかの商店街にも広がり、お神輿がそこかしこから担ぎ上げられるようになりました。
中道通りも1979年(昭和54年)に手作り神輿がお披露目され、吉祥寺秋祭りが始まった年から遅れること6年、先人たちがお神輿を担ぎ始めました。中道通りも当時はこの地に住みながら商いをしていた方々がほとんどだったと思いますが、時代の流れとともに住みながら商いされる方が減り、働きに来る方々が増えるようになりました。お神輿も商店会の人たちだけでは上がらなくなり、近隣にお住まいの方々の力を借りて運行するようになりました。
2011年(平成23年)に、吉祥寺秋祭りに参加させてもらうようになってから、年々担ぎ手の皆さんの人数も増え、お神輿や太鼓山車の運行についてもより体系的で責任分担と役割をシェアできる、組織立ったお祭り愛好家のグループを作ろうという機運が高まりました。

当時の木札

中道祭礼悲喜こもごも

ボクは当時商店会の副会長でしたが地縁はなく、お祭りは、この地に住んで商いをしている会員と地域にお住まいの方々のもので、彼らが中心となってお祭りを楽しみながら運営し、商店会はその活動をサポートするのが理想と考えていました。
まずはこの地にお住まいで昔から中道通り商店会のお神輿を担いできた人たちを中心に相談し、神輿運行に関わる庶務や会計、運行するときの責任者や警備担当を担う人たちを組織化したお祭り好きの集まり、「中道祭礼」を立ち上げることとなりました。
最初はお神輿好きの地域の方々と商店会会員の緩やかな繋がりからスタートし、中道祭礼のメンバーは個人でネームの入った半纏を作って着ることができるといった、一般の担ぎ手さんが秋祭りの時に羽織る商店会の貸し半纏と差別化する事で、中道通りの秋祭りを背負い、多くの担ぎ手さんを束ね、お神輿を安全に運行する責任と役割を担うメンバーとしての自覚を持ってもらうことからスタートしました。
発足当初は、それまで頭を張っていたみすずのお父さんに代わりお神輿を上げるんだと言う強い想いで力をあわせて準備していましたが、実際に秋祭りで神輿を渡御して行くと、なかなかチームとして機能しないことも多く、うまくいかない場面もあったり。
そもそもお神輿を楽しく担ぎたいだけなのに、祭礼メンバーになってしまったがために、一般の担ぎ手さんに示しをつけるためにお酒が飲めなくなって、お神輿もお祭りも楽しくなくなってしまったり。
メンバーひとりひとりのお祭りやお神輿に対する想いや携わり方の違いが浮き彫りになってしまい祭礼メンバーの間にすきま風が吹くように…..。
組織を作り育てて行くことの難しさに直面した時期もありました。
ボクは、みすずのお父さんのように、地元に住んで商売していて、祭礼メンバーにとっても、いわば重石にもなるようなリーダーがいないとまとまるものもまとまらないんだなぁと改めて気づかされました。

中山くんの登場

そんな不協和音が出始めた頃、お祭りについてもの申す「男漢」が現れました。
当時はまだ商店会の役員になりたてでしたが、家業をついで20年以上も中道通りで商いしていた中山輪業社の中山くんでした。
中山くんは、ボクと同い年。ボクが商店会と関わるようになった頃は、会のことには積極的にコミットせず、どちらかというと眺めてる感じでしたが、少しずつ会合に出てきてくれるようになり、ボクもお店に行って、中道通りや商店会のことを相談していました。
そんな彼が、商店会の会合でお祭りについて彼なりの意見を述べてくれ、僕としては彼なら次の良い重石になれるのではないかと思い、商店会の役員とお祭りのリーダーを兼務してもらうことで商店会と中道祭礼の鎹(かすがい)になってほしいとお願いしました。最初は少し嫌がっていましたが、もの申すほどの想いがあるならと口説き落としました。
中山くんをリーダーに、皆でまず着手したのが中道祭礼の存在目的や意義、会員が何をなすべきかを明文化して祭礼メンバーの間で共有すること、会費を徴収し会の運営と懇親のために活用することで、組織としての中道祭礼のあり方や祭礼メンバーの役割を皆で共通認識にしたことでした。
2016年(平成28年)から運用したこの中道祭礼規約の策定には、商店会の役員でもあるパールズホワイトの久保田さんを中心に時間と労力をかけて取りまとめて頂きました。本当に感謝しかありません。
そして中山くんには、翌2017年(平成29年)から、商店会の副会長にもなってもらいました。

中山くんは男気の塊

中山くんのすごいところは、その責任感の強さとわからないことをそのままにしない勉強熱心な姿勢でした。
彼も最初はお祭りやお神輿のしきたりのことはよくわからないと言っていましたが、中道祭礼のお祭り好きの方々から教わったり、時には吉祥寺秋祭り実行委員会の自分よりも年下の委員の方々にもどんどん教えを乞い、中道祭礼のメンバーと一般の担ぎ手さんを束ねるリーダーとして、中道通りだけでなく吉祥寺のお祭り好きからも声をかけられるような存在、まさに中道祭礼の顔になってくれました。
ボクは個人的にも商店会の会長としても中山くんのことが誇らしく、当初ボクが思っていた通り、中道通りに住んで商いしている人たちとこの地域にお住まいのお祭りやお神輿好きの人たちが中心となってお祭りを楽しみながら運営し、そう言う人たちを商店会がサポートすると言うひとつの理想型に近づいたと実感しました。
2019年(令和元年)の吉祥寺秋祭りでは、中道祭礼の会員23名と150人を超える地元の担ぎ手さんを束ね、後継者となる次のリーダーたちへの橋渡しにも着手し、中山くんにとって集大成の秋祭りとなりました。

予期せぬ別れ

ところが、2020年(令和2年)から始まった新型コロナウィルスの感染拡大により、吉祥寺秋祭りは中止を余儀なくされ、中道祭礼のメンバーも、集まれるのがユニクロ吉祥寺店で毎年展示している自慢の手作り神輿の設営撤去の時だけ。お酒を吞みながら一緒にお祭りのことで盛り上がれる機会すら奪われました。
そしてそんなコロナ禍の中、ボクにとっても、そして中道祭礼のメンバーにとっても、とても悲しいことが起きました。
2021年(令和3年)4月、中山くんが旅立ってしまったのでした。
もともと体調が悪かったことはもちろんわかっていましたし、病気の進行を抑えることぐらいしかできない病であることも知っていましたが、まさかこんな急に逝ってしまうとは。
ボクにとっては、商店会のことや中道祭礼のことを気軽に相談できる同い年の相棒。まだまだ一緒に商店会と祭礼のために同じ時間を過ごせると思っていたのに。こうして文章に残す作業をしていても、パソコンのモニターが霞んできます。

まだ若くて元気だった頃。ボクの好きな写真。

前に進もう!

2022年(令和4年)9月10日(土)、11日(日)に第50回吉祥寺秋祭りが3年ぶりに開催され、街にお神輿と祭りの賑わいが戻りました。
開催について、街の中でも様々な議論があり、お神輿が上がらない町会もあれば、ぎりぎりの判断で急遽参加が決まる町会など、各町会商店街共にお神輿を担ぎ上げることについては、難しい判断がありました。
中道通り商店会と中道祭礼は、結論から言うとお神輿を担ぐのではなく、台車に乗せて牽くことを選択しました。
理由はひとつ。ボクは、3年ぶりの開催だからこそ、町内全域(中道通り商店会の会員店舗とその周辺の地域)に、お神輿に神様をのせてお連れし、街の安心安全と会員店舗の商売繁盛、そしてお住いの皆様の健康とご多幸を祈念することがボクらの責務だと考えました。そしてそのためには、多くの担ぎ手の皆さんに参加してもらわなければなりませんが、3年ぶりで、しかも感染状況が落ち着かない中ではとても集められない。仮に集まったとしてもお神輿を担ぐこと自体「蜜」になり、担ぎ手の皆さんの感染防止と健康を担保できないことから、「神輿は牽く」と宣言してしまったのでした。
祭礼メンバーの中には、「担ぎたい」と思っていた人もいたことと思いますが、ボクが宣言してしまったために、担ぎたいという想いを封印させてしまったことは申し訳なかったと思います。
それでも祭礼メンバーは文句ひとつ言わずボクの考えに従ってくれ、秋祭りの2日間、町内全域にお神輿を運んでくれました。本当に感謝です。
中道祭礼は、発足当初からの様々な課題を乗り越え、またコロナによる中止、会の柱である中山くんを喪ったことなど常に苦難を乗り越えながら、結束力を高めてきたと思います。
2023年(令和5年)の第51回の吉祥寺秋祭りは、コロナ前と同じように一致団結して、安心安全で楽しい秋祭りを開催できることを願ってやみません。

2022年中道祭礼のメンバー

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