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かんそう

2024/3/2

私はきっと落ちている。
親戚の小学生から3年連続で貰っていた手作りの御守りを、まとめてゴミ箱に投げ捨てた。ごめんね、感謝はしてる。ただ、これ以上手元に置いておくのは辛かった。私には、少し重すぎる。
君が思ってるほど、私は賢くありません。
君が思ってるほど、私は頑張れていません。
だからもう、どうか応援はしないでください。

京大は運命、と最初に言った奴を殺せ。

京大を志す多浪が口を揃えて唱える例の妄言が、私は心底嫌いだ。本当に運命なら、現役か少なくとも1浪で受かっているだろう。2浪してそれでも落ちる大学が運命であるものか。

京大は運命ではない。

殊更私に関しては、大阪大学の積分サークルに属する『のえりん』という女の子への恋慕から漠然と大阪大学を第一志望にし、そのうち相応の実力も伴わないのに何故か「大阪大学は京大に行けなかった負け組の集まり」と尊大な考えを抱くようになり、気付けば京大を志望していただけにすぎない。
なんとも浅はかな運命があったものだ。
もっといえば、私が『のえりん』に抱いていたものはきっと恋慕ではなくただの性欲だ。
ノートに鉛筆でマンコの絵を描き、その上に『のえりんのマンコ』とタイトルを付けるだけの心底気持ちの悪い手慰みに妙に興奮を覚えていた記憶がある。
凛として思春期であった。
何はともあれ、きっかけは本当にそれだけだった。
性欲と思い上がり、そんな下世話な感情に端を発する京大への想いを、あろう事か運命などと言えるほど、私の面の皮は厚くない。

やはり、京大は運命などではない。

あるいは、もし本当に京大が運命なのだとしたら。
来たる3浪も当然運命のうちという事になるだろう。
私が現役で落ち、1浪でも落ち、2浪でさえ落ち、そして3浪目へ足を踏み入れる事は、宇宙の産声より早く宣告された決定事項だったのだ。
ならば、私のこれまでの人生は一体なんだったのか。
初めての受験を目前に控えた高校3年生の秋冬、「大学生になったら」を枕詞に、友人と夢に溺れながら交わした飲みの約束、旅行の約束、シェアハウスの約束、そのどれもはなから叶わない運命だったという訳だ。
家族親戚友人教師、関わってくれた全ての人からの「お前なら京大に行けるよ」という期待をこれでもかと無惨に踏み躙るのが、運命だったという訳だ。
そう。それもこれも、運命だったのだから、仕方ない。
仕方ない事だったのだ、と。

断じて否。

京大は運命などではない。
京大が運命であってたまるか。

私のこの吐き気を催す裏切りが、私の意志とは無関係に定められていた予定調和でしかないなどと、そんな甘えが許されてたまるか。
そうなる運命だったのだから責めないでおくれなどと、こんな怠惰な私をそれでも信じてくれた人達にどうして言えようか。
この裏切りは他の何者でもない、私の罪だ。
断じて運命如きに譲ったりはしない。

京大は罰である。

確かな憧れで挑んだ、初めての京大受験。
雪辱を晴らそうと望んだ、2度目の京大受験。
早く終わってくれと縋った、3度目の京大受験。

そしてその全てに、私は負けた。
そのどれにも、熱い血潮は流れていなかった。
受験は気持ちだ、マインドだ、パッションだ。
直前期、そう鼓舞しながら握りしめた拳のなんと空虚なことか。
空っぽだ。
当然である。何も積み上げてきていないのだから。
なんのせいにするでもない、私が弱いから落ちただけだ。
むしろ運命などというものが本当にあるのなら、ほとんど勉強していないのに二次試験奇跡の採点で国語94点、数学110点オーバーの上振れを引いた1浪時に受かって然るべきだろう。あるいは、1浪目で落ちた私を尻目に努力を結実させ見事京大生に成ったTwitterの同期に対する猛烈な憧れと嫉妬で、遮二無二努力し2浪目で受かって然るべきだ。
現実は言うまでもない、私は自らの怠慢で、あり得た運命すら裏切ったのだ。
だからこれは私だけの敗北で、私だけの裏切りで、私だけの罪なのだ。

京大は罰である。

甘んじて受け入れなければならない。
新卒カードも、年上彼女も、望む全てをかなぐり捨てて、それでも京大に受かる事が、私に出来る唯一の贖罪なのだ。

京大に対する熱はとうにない。
大学なんてどこでも良いと心底思う。
ふと目が覚めて、この浪人が全て悪い夢だったなら、きっと現役で関西学院大学に進学する。
だって京大は運命じゃないから。

それでも私は、来年も京大を受ける。

だって、京大は運命じゃないから。


_____________以上、2024/3/2脱稿


2024/3/10/12:09

合格者の番号が連ねられた例の画面に辿り着くまでにはやはり時間が掛かった。
何故この回線はこんなにも重いのか。
私は自分の不合格に自信があった。
充分な手応えがあるにも関わらず、不合格だ、もう一年だ、と嘆き同情を集めようとする安い馴れ合いを私は好まないし、実際僅かでも自信があるならそれを隠すなと強く主張してきた。
私には本当に手応えが無かった。
何度も嘆いたし、そこにカケラほどの嘘偽りもないと、何に自信を持っているのだと言う指摘はさておき胸を張って言える。
自分の不合格に自信があった。
自分の合格に自信がなかった。
自分の積み上げてきたものに一切の自信がなかったから、せめてもの虚勢として、不合格に自信を持たざるをえなかった。
ここは持たざる者の場所だから、と十分な出来に関わらず不合格芸に勤しむ人達を必死に拒絶し、自分の不出来を誇示する私の姿は周りの目にはさぞかし滑稽に写っていた事だろう。
それでもいざ合否発表が近づくとどうしても理想を幻視してしまうもので、無いと確信していたはずの番号を僅かな期待と共に探してしまう。
もしかすると、ひょっとすると、ともすれば、私の番号がひょっこり顔を覗かせるかもしれない。
あれ。
あってくれ。
お願いだから受かっていてくれ。
私の番号がそこにあるだけでいい。
他に何も要らないから。
お願いします。

迫る自分の番号。
あと30
あと20
あと10

無い。

知っていた。分かっていた。
筆舌に尽くしがたい虚脱感と、後悔と、ある種の解放感を1年ぶりに思い出し、同時に今までこれを忘れていた自分が情けなくて、思わず笑いが溢れた。
まぁ、きっとこの感情もすぐに忘れるから問題はない。

思えば自分の努力不足を手頃な何かで代替しようとしてばかりの1年間であった。
ハリボテの上に築いた仮初のマインドの火ごときでは、いくら燃やしたとて合格に届き得ない事は明らかである。
火を見るよりも明らかとはきっとこの事なのだろう。
こんな事はずっと分かっていた。

例えば神頼みもした。
最寄りの神社に出向き文字通り頭を地に擦り付け「もし神様が居るのなら、どうか私に合格を」と人目も憚らず大声で祈った。
ところが私は落ちている。
ならばきっと神様は居ないのか。
違う。
これも本当は分かっていた。
もし神様が居るのなら、私のような人間に成功は与えない。
怠惰には然るべき罰を。
それが神様の本分であろう。
私が受かるには神様の不在を祈るしかないと、分かっていてそれでも縋った。
きっと神様は居るのだろう。

これに関しては余談だが、試験直前にウィダーインゼリーも飲んだ。普段なら一笑、冷笑に付すところだが、私は自分を貫くことすらできなかった訳だ。

祈りとは人間にのみ許された意志の営みであると、誰かが言っていた。
馬が嘶き、鳥が啄むように、人間は祈るのだと。
なるほど、私も案の定人間だった。
俗説に祈り、自分に祈り、神に祈った。
逆張りすら放棄した私は、つまるところ自分に負けたのだ。
完敗である。

京大は罰であると、数日前の自分が表現していたのは言い得て妙であると思う。ただ少々自分に酔いすぎだ。たかだか大学受験はそんなに大層なものではない。
罰だのなんだのの動機で、もう一度受験する気力はない。
ならば京大とは何か。
運命でもない、罰でもない。
例えばそれは夢だったかもしれない。
追いかける姿勢はどうであれ、3年もの間、確かに目標として常に私の前にあってくれた。
例えばそれは鏡だったかもしれない。
受験を通して、弱い自分の姿をこれでもかと見つめさせられた。これを書いてる今もまた、弱さを積極的に認める事で他人からの非難を先んじて回避しようとするある種の弱さと向き合わされている。

しかし、夢も鏡も、ありきたりで陳腐の感が否めないし、やはり自分に酔いすぎな気がする。かといって京大は京都にある一つの大学にすぎない、と結論付けるのも流石に投げやりがすぎるだろう。
今日までの私にとって、京大はなんなのか。不合格を反芻しながら考えたが、納得のいく答えは出なかった。
ただ、今後の私にとって京大が何になるかは、一つ答えが出た。

京大は観光地である。

ここまでつらつらと続けた観念的な表現に比べるとなんとも肩透かしだが、この表現が一番しっくりくる。身の丈に合っている。運命も罪も夢も大袈裟だ。
今のこの感情はすっかり忘れ、京都を訪れた際にふと思い出し、立ち寄る度にこの3年間の事を懐かしく思うような、そんなよくある観光地の一つに、京都大学は少しずつなってゆくだろう。
それでいい。
それがいい。
嗚呼、さようなら京都大学。
今日までありがとう京都大学。

ここまで書いてようやく気持ちの整理にひと段落ついたので、何もかも吐き出すように一つ深く呼吸をしてクスノキ下のベンチから腰を上げた。嫌味なほどに、青い空である。

クスノキに一礼をして、憧れ続けた京都大学を後にする。
そうあれたかは分からないが、浪人生として、京大志望としての自分が、ゆっくりと宙に溶けていく。 
受験が終わった。
肩の荷が降りた。
春を待つまでもなく、家に帰る頃には私はもうすっかりただの大学生だろう。
もう二度と、あの苦い渇望の日々は訪れない。

それが今、寂しくて仕方ない。


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