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仮面的世界【1】

【1】仮面考・再起動の辞と前口上(壱)─今福龍太「仮面考」

 かつて「仮面」もしくは「仮面的なもの」に対する興味・関心が嵩じて(あるいは仮面の魔力に魅入られ、取り憑かれて?)、手元にある文献や資料を摘まみ食い的に眺め、拾い読みし、そこからいくつかの素材あるいは「思考細片」のごときものを抽出・蒐集し、決して網羅的・体系的にではなく、「仮面考」の標題のもとで仮編集したことがあります。
 それらは、いずれ取り組まれるべき‘後の考察’のための準備作業として行ったものであり(少なくとも心積もりとしては)、しかも当初予定していたところまでやり通すことなく、中断し放置したままになっていました。
 あれからほぼ四半世紀が過ぎて、この間も「仮面(的なもの)」への興味や関心は涸れることなく細々と続き、あたかも伏流水のように時々の関心事の底辺に淀んでいました。(例によって網羅的・体系的ではないけれども、目についた文献や資料を入手し、時々に心に浮かんだ‘アイデア’類似の思いつきを書き留めてもきた、読み込みも反芻も‘後の考察’に委ねたままで。)
 ここにきてようやく、再開へのモチベーションが高まってきました。やり残した作業を完遂し、仮綴じのまま寝かせ発酵もしくは腐敗のプロセスが進行するに任せてきた断片的な‘着想’や‘考察’(と言えるものであれば)にまともな形を与えておきたいという思い、というか内圧が強くなってきたのです。
 こういう時は、最終的目標や着地点のイメージに拘らず、とにかく行けるところまで行く、気が変わったら方向転換し、行き詰ったら中断を恐れない、という緩い方針のもとさっさと着手してしまうに限ります。
 とりあえず、前回の試みの‘成果’(と言えるものがあれば)をダイジェストし、枝葉末節を削除して足らずを補い、新たな文献や資料から知見や創見を引き出してみる。そうすることによって、「仮面(的なもの)」という観点から見た世界、すなわち「仮面的世界」の概形を描き、さらなる‘探究’への道筋をつけていく。
 おおよそ以上のような‘構想’のもと、気儘な作業に取り組んでいきたいと思います。
     ※
 前口上として、仮面考の再起動を‘決意’するに至った背景について述べます。
 間接的な理由となったのは、今福龍太氏が『すばる』誌上で「仮面考」の連載を始めたことです。
 私は到底、多産・豊穣な今福本の良き読者だとは言えませんが、それでも、『荒野のロマネスク』『ここではない場所 イマージュの回廊へ』『身体としての書物』『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』といった、濃密なマテリアルと深甚な思索を湛えた書物に接し、強い刺激を受けてきました。(とりわけリリカルでポエティックでマテリアルな文章で綴られた『薄墨色の文法』からは深甚な影響を受けた。)
 その今福龍太が「仮面なるもの」に対して真っ向から、‘満を持して’取り組みを始めるというのですから、心穏やかではいられません。

《思い起こせば、あの[子供時代の鬼ごっこにおける──引用者註]両手で自分の顔をおおう仕草にはじまり、私はさまざまな「仮面なるもの」と出会ってきた。(略)それらを渉猟し、探究しながら、仮面はいつも私が世界を見、人間について考えるとき、その想像力の飛躍のための特別な手がかりでありつづけた。
 「面[めん]」は「面[おもて]」でもあり、それは「心[しん]」をその反面として持つことによって、「実存」なるものの一貫性にたえず深い亀裂を刻みつづけ、その安定を揺るがしつづける文化的媒体である。いいかえれば、仮面は人間の存在論的な自省と批判のための特権的なメディアなのだといえるだろう。そしてそのために、「仮面」は人間の創造的な表現のもっとも深い様態としての、社会的・文化的・神話的「演技[ドロメーノン]」が練り上げられる高度な表現作用の場ともなった。世界に厚みのあるリアリティを付与するために、仮面という演劇的な仕掛けは実際にも、また象徴的にも、きわめて重要な媒体として歴史のなかではたらいてきたのである。》(「仮面考第一回「恐怖と仮面──ポーからボルヘスへ」」,『すばる』(2022年2月号)167-168頁)

 いま抜き書きしたこの一文は、「仮面なるもの」をめぐるほとんど窮極の発言のように思えます。ここまで言われたら、あとはただ今福氏の議論を丹念にトレースし、そこに描出・剔出される世界に身を委ねるだけでいいのではないか。
 それはそうかもしれないけれど、やはり、今福氏の議論に注目しつつも、やりかけのままだった作業に一応の‘かたち’を与えて、自分なりの「仮面的世界」を造形してみたい。それが、仮面考再起動の間接的な動機です。

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