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ペルソナ的世界【18】

【18】混成体、記憶、クオリアとゾンビ─ペルソナの諸相4

 最後に、永井哲学(永井神学)とペルソナ論との関係をめぐる話題(個人的関心事)を、いくつか備忘録として拾っておきます。

 その1.「混成体」をめぐって

 “愛”を本質とするペルソナは、現実性と実在性の「混成体」である。第13節で、私はそのように書いた。後半部分の出典となった永井均氏の文章を引用する。

《意識の私秘性という問題にはじつは、経験的事実としてそれぞれ他の箱[=心]の中を覗くことがでないという種類の問題と、箱はじつは並列的に存在してはおらず、なぜか一つだけいわば裏返されており、すべてがその「中」にあるという問題とが、一つの問題に統合されているのである。私秘性という概念には本質的に異なる二種類の世界像が混在している。これを「矛盾」と呼ぶこともでき、それはマクタガートの言う時間の矛盾と(現れ方は異なるとはいえ)問題の根は同じである。哲学的に重要なことは、そこに同じ問題を見て取ることである。私秘性がその本質的要素に含まれると見なされるかぎり、意識、感覚、体験、……等々のすべての概念に、これと同じことがいえるはずである。それらはみな、寄与成分[第0次内包:実在性]と無寄与成分[無内包:現実性]の混成体だからだ。》(『哲学探究2』266-267頁)

 私が考えようとしている(してきた)ペルソナは──その“半身”をなすものとして、不遜にも限定的に取り込んだ森岡正博氏のアニメイテド・ペルソナの概念ともども──ここで言われる「私秘性」の範疇に、すなわち第0次内包と無内包との「混成体」に属していると言える。
 ただその場合にあっても、その本籍地は現実性(実存)ではなく実在性(本質)の世界なのではないか。つまり「混成体」とは堕天使のような存在なのではないかということ。
 ──唐突だが、私はここでかつて傾倒した八木誠一氏の「統合体」としての心、その統合をもたらす「内なるキリストのはたらき」という思想を想起している。神が受肉したイエス・キリスト、そのキリストが受肉した私(統合体にして混成体?)。

 その2.「記憶」をめぐって

 森岡氏の──「目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)」をめぐる──アニメイテド・ペルソナ論を一瞥したうえで、「受肉」と「記憶」をめぐる“永井神学”の議論を取りあげる。第14節で、私はそのように書いた。まだ充分な準備ができていないので、以下、素材のみ覚書として書き残しておく

 永井氏は『哲学探究2』において、「〈私〉の持続という問題」をめぐって次のように書いている。

《彼ら[「唯物論的独我論者」と「東洋の専制君主」]は、〈私〉であることが一人の人物と結合し、その結合がその人が生まれてから死ぬまで持続するという素朴な直観を疑っていない。彼らの問いも答えもこの前提に依存している。しかし、「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したりする人」とか、「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを直接動かせる、……人物である」といった、〈私〉の成立の第一基準は、じつのところは「現に今そうである人」の意味であって、過去にそうであった人や未来にそうであろう人は含まれていない。理由は簡単で、過去にそうであった人とは今そう‘記憶されて’いる人のことであり、その記憶の現実性それ自体には第一基準が使われているとはいえ、過去との繋がりはその記憶の内部で保証されているにすぎないからだ。未来についても事情はまったく同じである。》(『哲学探究2』236-237頁)

 文中の「記憶の現実性」に付けられた註。「…ここで「記憶の現実性」とは、その記憶が正しいという意味ではなく、その記憶だけが現実に与えられているという意味である(すなわち、われわれがずっと問題にしてきた意味での「現実性」である)。記憶におけるこの二要素──その現実性(実存)とその内容(本質)──の‘結合’こそが〈私〉を世界に繋ぎ止めている。」(237頁)

 〈私〉を世界に繋ぎ止め、〈私〉の持続を成立させているのは、言い換えれば、〈私〉の受肉の受け皿となっているのは、身体と記憶だろう。現実性(実存)と実在性(本質)の「結合」とは「混成」の別名だろう。
 森岡氏が、アニメイテド・ペルソナ──その究極は、「固有名」で呼びかけられることを待っている存在なのかもしれない、あるいは“霊性”(生命感覚)のごときもの?──が現われ活性化されるファクターとして挙げていた要素は、煎じ詰めると「身体(姿形、ふるまい、表面性、等々)」と「記憶(歴史、愛着、文脈、等々)」に集約できるように思う。そして、私が考えようとしている(してきた)ペルソナの(アニメイテド・ペルソナではない方の)“半身”は、このうち「記憶」の成分をより濃厚に含んだ存在だったのかもしれない。

 その3.「クオリアとゾンビ」をめぐって

 永井氏は、『哲学探究3』第5章のⅡ「「クオリア」とそれを欠くとされる「ゾンビ」の真の(隠された)意味」において、次のように論じている。

 いわく、自己識別の第一基準「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、現実に思い出したりする人」には、二つの側面がある。
 第一は、意識あるものとして理解された犬や猫のような動物において、非言語的な仕方で、反省的自己意識の成立とは無関係にはたらいていると考えられる側面であり、第二は、人間における「私」という語の適用基準として、いわば自己意識の成立基準のようにはたらいている側面である。
 この二つの側面に対応させて、二つのゾンビを想定することができる。
 第一の犬猫ゾンビは、通常理解される意味での「哲学的ゾンビ」が十全な形で、つまり感覚質としてのクオリアを欠いた生き物として想定可能だが、第二の人間ゾンビは、そのような形でのゾンビが想定できない。ゾンビの人に欠如しているクオリアとは意識の感覚的成分のことではなく、想起や推論に必ず伴う「それが自分に起こっているという事実」だからだ。
 心的事象を質的成分と意味的成分に分ける場合、通常の理解では前者がクオリアと呼ばれるが、意味的クオリアというものもある。質的成分であれ意味的成分であれ、問題の構造は変わらない。いずれにせよ、「たくさん存在している意識主体の意識経験のうち、どの主体の意識経験がただ一つ現実に体験されるか」という問題が、ここに介入してこざるをえない。

 犬猫ゾンビに関して、第1章では次のように述べられている。
「…人間という生き物からクリア成分を取り除くとゾンビという生き物になる、といった捉え方はじつは誤りである。そのように捉えられれば、そこで取り除かれるべきクオリアという成分は、実在しないからだ。クオリアを取り除くとは、その究極的な意味においては、累進の原点にあるただ一つのむきだしの心からそのただ一つのむき出しという性質を、これまで使ってきた表現法で表現するなら〈私〉である人からその〈 〉性を、取り除くという意味でしかありえない。そのこと自体が累進的に一般化されることによって、人々(あるいは生き物)が一般的に持つ実在的なクオリアという発想が生じたのである。」(20-21頁)
「だから、クオリアは無関与成分かという問いも、的はずれである。無関与的であるのは〈私〉の〈 〉性であり、クオリア概念はその疑念の一部にその無関与的なあり方に由来するものを密輸入して暗に取り入れているにすぎない。」(21頁)

 また、永井氏がいう人間ゾンビは「《私》ゾンビ」(82頁)にほかならないのだが、このことも既に第4章で論じられていた。
「…〈私〉だけあり方が他の人々と違っているというその違い方が概念化されて他者たちにもそれぞれ適用できるという段階を経て、その違い方の適用が概念的にもできないような人を想定してそういう人を「ゾンビ」とみなす、という段階に達することができる。通常の哲学的ゾンビの想定にもこの意味が控えめに言っても含まれてはいるように思われる。」(68頁)

 そして、他人はじつはゾンビかもしれないという懐疑論の哲学的意味についても、第5章のⅠにおいて次のように語られていた。
「これまでそう理解されてきた「クオリアの欠如」という側面からこれを捉え返すなら、この問題は、たしかに平板な(平面的な)世界理解においては第0次内包レベルにおける感覚的な質の欠如と解釈されざるをえないとはいえ、じつのところは、平板な(平面的な)世界理解の内部ではそもそも理解不可能な、それを超えたいびつな(立体的な)世界理解において初めて理解可能となる、「無内包の現実性」としての〈私〉(およびその概念的理解としての《私》)の成立とその欠如にかんする問題にほかならないのではあるまいか、という問いなのである。比喩的に語るなら、クオリア(感覚質)とは立体的な事実が平面へ投影された形でしかないのではあるまいか、ということである。」(95-96頁)

     ※
 かくして、議論は「クオリアとペルソナ」の問題へと帰還しました。第6節の図における「ペルソナ(コギト)」(それは永井氏が独自の意味で使った「クオリア」でもある)の欠如態としての「ゾンビ」すなわち《私》ゾンビ。
 私は、アニメイテド・ペルソナにも、この意味でのゾンビ性──永井氏が言うところの「人格ゾンビ」(114頁)──を感じるのですが、はたしてこの直観が正しいかどうか、正しいとしてそれがどう正しいのかは、(ゾンビをめぐる永井氏の議論の真意を私が理解できているかを含めて)今後の宿題として残しておくことにします。

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